花冷えとタイトロープきみは僕の太陽だ(おそ松編)と同一設定です。







「中で吸ってもいいよ」

 ベランダに灰色の糸がまっすぐに立ち上っていた。おそ松は昨夜自ら空にしたビール缶を灰皿代わりに、そこでのんびりと煙を吐いていた。
 起き抜けの髪はぼさぼさで、後頭部に角みたいな寝癖ができている。彼の髪の毛を撫でつけたい衝動に駆られたが、生憎ベランダに置いているスリッパは一足だった。女物のスリッパに窮屈そうにしまわれた爪先とはみ出たかかとがかわいくて、思わず口もとが緩んだ。

「大丈夫」

 耳障りの良いおそ松の声が煙にとけていく。
 二人とも少し寝過ごしたようで、東向きの窓から差し込む光の束はだいぶ傾いてしまっていた。おそ松は窓に寄りかかりながら、いかにもけだるげな風情で、薄い光に目を細めている。
 もう少し彼に近づきたくて、身を乗り出すように一歩前に出ると、裸足の足裏に窓の桟が触れた。金属のひんやりとした感じが、そこから一気にからだの中心に上ってくる。

「何?寂しいの?」
「違いますう」
「素直じゃないなあ」

 おそ松が、ははっと楽しそうな息を漏らすと、一緒に吐き出された煙が白い霧になって彼を薄く象った。
 二本の指で挟んだ煙草をビール缶の飲み口にとんとんと打ち付けながら、おそ松が私の方へ歩み寄ってくる。ぎこちない歩き方に、スリッパの引きずられる音が続いた。

「おいしいの?」
ちゃんは吸ったことないの?」
「うん」
「吸ってみる?」
「えー。いいよいいよ」

 顔の前で手を振って断りの言葉を口にしたのに、指先の間からちらつくおそ松の顔がやけに屈託なくて嫌な予感がする。
 おそ松が煙草をくわえて深く息を吸った後、ぷかりと大きな輪っかを作り出した。すごい、とそれに目を奪われた瞬間、ことんと小さな音が聞こえた気がして彼の方へ顔を戻すと、煙草を持っていたはずの手が伸びてきて、私の後頭部をとらえた。
 抵抗する間もなく、そのまま彼に引き寄せられて、難なく唇を奪われた。呆気にとられて開いていた唇は、彼のやわらかい舌を歓待しているようだ。侵入者は濃い苦みをまき散らしていく。
 それから、彼の舌が吸盤みたいに私のそれに吸い付いて、今度は彼の口内に連れ出された。昨夜よりずいぶんとひんやりした壁に当たって、からだの中心に落ちてくる。びくっと身を震わせると、唇の端から彼の愉快そうな息が漏れた。

「おいしかった?」
「苦いし、冷たい」
「冷たいんだ?」
「煙草って血管縮めるから、口のなかも冷たくなるらしいよ」
「……へえ」

 おそ松がにやりと唇の端を歪めながら、私と目を合わせた。

「何でそんなこと知ってるの?」
「え?」

 以前付き合ってた人が喫煙者だったから、とは言えない。言わなかったが、おそ松は大体察したらしく、目を細めながら、ふーん、とか、へえ、とか意味のない相槌をばらまいた。

「おそ松?」

 謝るのはなんだか違う気がして、上目遣いにごく丁寧に彼の名前を呼んでみる。

「別にいいよ。今は俺のでしょ」

 おそ松が唇の先から漏らすようにして言った。すねた感じの割には語尾の上がらない自信満々なその声は、彼らしくてひどく愛しく思えた。


(2016.03.30)


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