カチッ。

 どこかで何かのスイッチが入る音がして、私は不意に目を覚ました。とりとめのない夢を見ていた、気がする。寝ざめはさわやかで、寝起きからこんなにすっきりとしているのは久しぶりだ。というよりも、人とベッドを共にしてこんなに清々しい朝を迎えたのは初めての経験かもしれない。からだの奥底に沈んでいた残渣のような疲れが、さっぱりと洗い流されていた。
 隣には、昨日拾った男(の子、ではない気がする)がまるで安心しきったあどけない様子で眠っていた。どこか浮世離れしたつるんとした顔にくっついた唇から、規則正しい寝息がひそやかに漏れてくる。それはまるきり安寧の縮図みたいだった。

 男とは――おそ松とは、昨日初めて会ったばかりだ。初対面の男と碌に口をきかないままこんなことになるなんて。疲れによる思考力の低下としか思えない。疲労骨折よりもよほどたちが悪い大怪我のように思える。

 昨日は星も震える夜で、私はいつものように残業を終え、重いからだをひきずるようにして駅の冷たいプラットホームで電車を待っていた。すでに桜は開花宣言を済ませているのに、頭の動きまで強制的に止められてしまいそうな風が肌に触れるたびにずたずたに切り裂かれているような心地がした。服の隙間から忍び込んでくる冷気に身を縮ませながら、スプリングコートの襟をぐっと押さえる。"スプリング"というだけあって薄い布でそんなことをしても無駄な抵抗だろうが、遮るものが何もないホーム上では、そうやって耐え忍ぶしかなかった。

「おねーさん」

 頭上の電光掲示板を、祈るような思いで見上げた。ゆったりと流れていく光が、私の救世主の遅延を告げる。落胆しながら目を落とすと、瞼の底に残った光彩で視界が揺らめいた。

「おねーさんってば」

 酔っ払いがベンチに座り込んでいた。気付かれないように横目で盗み見ると、存外若いような気がする。飲み会が終わるには少し早いくらいの時間帯で、周りには仕事帰りのサラリーマンが数人、その場に沈み込んでしまいそうな危なげな姿勢で立っているだけだ。私も同じような恰好をしているのだろうと思ったが、とても背筋を伸ばす気にはなれない。頬に手をやれば、しっかり下がった口角が触れた。指先で無理やり引き上げる。

「もー。無視しないでよ」

 男は焦れたのか、勢いよく立ち上がったあと、すぐにふらふらとその場に跪いた。私は咄嗟に動いたからだに頭の隅で抵抗しながらも、彼のもとへ駆け寄った。酒臭い呼吸に笑いが含まれている。まるで土下座のような姿勢のまま、顔だけを動かしてこちらを見た彼は、赤ん坊のようなふくふくとした頬を朱色に染め、私の警戒心を根こそぎ奪っていくような無防備で崩れた表情に満ちていた。

「おはよー」

 おそ松の双眸が開かれ、うっとりとした瞳が私を映した。私だけを。
 彼がいかにも大儀といった風情で寝返りを打ち、毛布ごと絡めとられる。私の肩口に顔を埋めながら、幸せそうな温かい呻き声を上げた。

「いつから起きてたの」
「さっきだよ」
「で、俺のこと見てたの」
「なんとなくね」
「否定しないんだ。男前ー」

 男前。職場でよく言われる言葉だ。男よりも頼り甲斐がある。男だったら旦那にしたい。男らしすぎて近寄りがたい。最後に付き合った男からの別れの台詞は、「お前といると、自分が情けなくなる」だったか。誰も好きでこうなったんじゃない。最低限、自分の最大限の力で仕事に向き合って何が悪い。ただ私は褒められたいだけだ。自分に。誰かに。

 急に黙り込んだ私に、おそ松は思案気に息を漏らした。一度離れて二人の間を隔てていた毛布を引きはがし、もう一度私のからだを自分のからだに縫い付けた。触れるまっさらな素肌同士で口づけを交わしているようだ。交差した首の向こうの彼の顔は見えない。

「曲がってる」

 同じようにつるんとしたきれいな彼の指先が、私の背骨をなぞった。腰まで降りてくるとまた上まで戻って、今度は二本の指で歩き出す。鼻歌まじりのご機嫌な呼吸が布団に落ちて、そこから花びらみたいに熱が広がった。

「普段こういうことするタイプじゃないでしょ」
「なんで」
「俺もそうだから」
「…嘘っぽい」
「信じるか信じないかは、ちゃん次第です。みたいな?」
「なにそれ」

 おそ松の指先が私の背中の上で踊っている。惜しみなく分け与えるような仕草だった。指先が曲線を描くたび、内側がどろりと甘ったるく流れ出していく気がする。甘やかされているのか。そう気づくと、久しく感じていなかった少女のような恥じらいが浮き上がってくるのを感じる。
 駅のホームの寒々しい蛍光灯の下で、ぼんやりと丸い笑みに埋もれていた彼の顔が胸をかすめた。それが今はすぐそばにあるのだ。近づきすぎて溶けてしまいそうな体を、彼に押し付けるようにして隙間を埋めた。



(2016.03.21)

material by oto

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