花冷えとタイトロープの続きみたいな話です。







「来ちゃった」

 ドアスコープ越しに覗いた世界は、深い湖の底へ潜り込んだみたいに真っ暗だった。胸のなかに取っておいたようなため息が漏れた。憂鬱の意味でも、ほっとつく安堵の意味でもないため息は、わたげのようにふわふわと舞い上がっていく。鍵を開けるときのがちゃりという音とほとんど同時に、勝手にドアノブが回る。おそ松は出会ったときとまるで同じに、角の削り取られた下流の石みたいなまんまるの顔つきでそこに立っていた。

「不用心だなあ」

 おそ松が歯を見せる。ドアスコープに手のひらをぺたりとつけて、にししとひとりでいまと同じように笑っていたであろう彼が容易に想像ついた。「気付いてたよ」と言えば、「愛だな」と茶化す。初めて会ったあの夜から、私たちは夏の暑い日によく熱せられた水たまりのように、曖昧な熱を帯びた会話を繰り返した。夢のなかをさまよっているような心許なさがあった。けれど手を繋いだ二人ごと迷子だったから、心細さは感じない。

「明日、映画見に行こうよ」
「何か見たいのあるの」
「いや、別に」
「なにそれ」
「鈍いなあ。デートしようって言ってんじゃん」

 夕飯はオムライスにした。ケチャップでハートを書いてあげたら、おそ松はまんざらでもない顔をした。おそ松に会う前のゴミ袋にはコンビニのカップサラダ、さけるチーズのパッケージ、それから歪に潰れたビール缶が詰まっていた。
 デートという言葉に、わずかに身構えてしまった自分に気づいた。おそ松はスプーンでハートをオムライス全体に引き伸ばしながら、私の答えを待ち伏せているみたいに見えた。おそ松とどこかに出かける自分を想像することができない。私たちには、夜の部屋の蛍光灯の下やベッドの上の薄ぼんやりした暗がりのなかがよく似合う。交わした言葉の数より、私のからだを行き来する指先の方が鮮やかなこの関係を、わたしはどう始めればいいのか、それとも終わらせればいいのか分からなかった。

「あとで明日何やってるか調べようか」

 私は初めておそ松に嘘をついた。





 目が覚めてからも、私は今日をどうやり過ごすか迷っていた。おそ松と出会って、彼と朝を迎えるのが日課のようになってから、肩の上に覆いかぶさるような疲れの残る朝は初めてだった。いつもはもつれた糸のように絡み合う二人の手足が、すっかり別々に投げ出されて、離れた指先同士が分かれ道を作っていた。
 手のひらに勇みを込めて立ち上がった。ベッドが小さくわなないて、おそ松の拙い寝息も震えた。光の漏れるカーテンを開ける。東向きの窓から差し込む光は、一日の始まりを告げていた。自分がどこにいるのか分からないみたいに眉間に皺を寄せたおそ松が唸る。私は恭しくベッドの横に跪いて、指先で彼の眉間の皺を伸ばした。おそ松がいつものように何の脈絡もなく目を開ける。ぐっと手をひかれ、視界が揺れたかと思ったときには、わたしの右耳は彼の胸にぺたりとくっついていた。見透かしているとでも言いたげな得意げな笑い声が降ってくる。

ちゃんが太陽みたいに眩しくて見えない」
「逆光でしょ?」
「つめてー」
「…映画は?」
「もうひと眠りして、DVD見よう」

 右耳に響いてくる彼の律動が永遠のように感じられた。規則的なリズムが皮膚から喉の奥へ潜り込んできて、そこに刺さっていた小骨を取り去ってしまう。上目遣いに盗み見たおそ松は、まるで二人の始め方を知っているみたいに見えた。



(2016.03.23)

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