菊さんと一緒にいると、時間は限りなくゆったりと流れていて、ときどき、流れていることすら忘れてしまうような気がした。
けれども当然そんなことはなく、少なくとも私の時間はいやおうなしに進んでいて、私はついに受験シーズンを迎えていた。
毎日、色んな数字やアルファベットや記号やひとの名前やらを、ちいさな若い限りあるあたまのなかに詰め込みながら、それでも私は菊さんの家に通った。
菊さんはそれを、ときたまたしなめるフリをしたけれど、いつも真新しいような感じのする畳の上で、机をはさんで向かい合わせに座りながら、私が勉強するのを見ていたり、本を読んでいたり、たわいもないおしゃべりの隙間にするりと差し込まれるあたたかい沈黙を楽しんでいたように思う。
ときどき、視線を感じた。
首を折り曲げて、顔とノートとをほとんど平行に並べながらがりがりとペンを走らせているとき。あたまのてっぺんの方から、ふわりとやわらかい熱を感じるのだ。それは、つむじから静かに全身を覆っていき、私はぬるま湯のなかであやされているような、そんな気分になった。
そんなときはいつも、しばらくの間、その赤ん坊のような気分を味わった。それから、彼の視線をとらえるべく前触れもなく気まぐれにあたまを上げてみるのだが、一度も彼とばちりと目が合うことはなかった。
私の気配を察しているのか、菊さんはやはりもって、人知を超えた何かを持っているのだろうと、たわいもなく考えた。
07.
「私、進路決めました」
菊さんが手にしていた文庫本から顔を上げた。その真っ黒い目の奥に何かをしまいこむみたいに、一度ゆっくりとまばたきをしてから、私の目をまっすぐにとらえた。
静まりきった夜の森みたいなその瞳に、私はかすかに落胆していた。
私はゆっくりと本を好きになっていった。
最初は、菊さんがふと思いついたように貸してくれる本を、彼自身が好きだから、という至極よこしまな理由でもって、なんとか咀嚼していた。
けれども、不思議と、誰かの人生は私の人生にも少なからず影響を与え始めた。私は私ひとりの一生を生きることしかできないが、本は私をたくさんの人々のもとへと連れて行ってくれる。それは決して私自身がその真新しい世界の主人公になれるわけでも、登場人物になれるわけでもなかったが、それらが私の人生の一部になってくれているような気がしていた。
傍観者としての私は、とても自由で、それでいて切なく、この世界たちを学んでみたいと思わせたのだ。
「文学部に行こうかと思ってます。それで、この間見学にも行ってきたんですよ。二駅向こうの女子大、知ってますか?」
「おや。本はお嫌いなんだと思っていました」
私の質問には答えずに、最近は自分から菊さんの"秘密基地"へお邪魔することを乞う私に対し、菊さんの目がいたずらっぽく細められる。彼は元々童顔ではあったが、ことさら少年のように見えた。
「誰かさんのおかげで好きになったんですよ。…ちょっと好きになりすぎたかもしれませんけど。自分でも、文学部に行きたいだなんて、びっくりしてます」
「私は、さんは本を好きになると思ってましたよ。あなたは以前に、"答えがありすぎるのが苦手だ"とおっしゃいましたが、私は本来答えなどないと思うのです。もちろん、受験用の好ましい答えはあるんでしょうが。さんは、きっと色々な人の立場に立ってものを考えられる優しいひとだから、すこし混乱してしまうのでしょうね。けれど、それも含めて、あなたなら楽しめるのではないかと思いまして。…でも、まさか進路にまで影響するとは思いませんでした」
菊さんがわずかにばつの悪そうに、けれどももっとずっと誇らしげにそう言った。
私は彼のいれてくれたお茶をずずっとすすり、熱くてみずみずしい感じのするものが、喉を伝って全身をあたためていくのを感じた。
「優しくなんかないですよ」
「私を信じてくれないのですか?」
「…そういう言い方はずるくないですか」
菊さんがふふっと息をもらす。
私はそれを見ながら、ふと、祖父のことを思い出した。
私はちいさい頃、父方の祖父のもとにあずけられていた時期があった。祖母は写真だけでしか姿を現すことがなかったから、きっと亡くなっていたのだろうと思う。詳しいことは分からない。両親には聞いたことがなかったし、二人の方も、あまりに私がちいさかったから、きっと覚えていないのだろうと思っているふしがある。
おそらく幼少期の数ヶ月を過ごしたであろうその場所には、大きな門があって、玄関に入ると長い廊下があって、それはどこまでも果てしなく続いているように思えた。柱は一本一本太くて立派だったが、ずいぶんと冷たい感じがした。
その家に、祖父はあまりおらず、今現在のお母さんよりもすこし若い感じのする女の人が、私の面倒を見てくれていた。彼女は丁寧で丁重に私を扱ったが、彼女の手は
いつも冷え冷えとしていて、私はほとんどの時間を庭の大きな木の下で過ごした。
大きな木の幹は、なぜだか不思議にあたたかく、その頃の私に優しくふれてくれたのは、その木と、一緒に秘密基地を作ったあの女の子だけだ。
あの頃の私は、いつもさみしくて、誰かの目を、手を、求めていた。
日常的に祖父の姿が見られたのは夕食のときだけだった。基本的に夕食だけは、一緒にとるというルールでも設けられていたみたいに、祖父はじっと近くに座ってくれていた。
私が行儀よく食事をし、にこにこしていると、祖父もすこしだけ優しい目をしてくれたような気がする。たまに怖い顔をしているときは、できるだけ静かに手早く食事を済ませ、自分で片付けまでする素振りをしてみせた(結局は例の女性に止められてしまうが)
我ながら涙ぐましい努力である。
そうして一度だけ、その切ない努力が認められたときがあった。祖父にはっきりとそう言われたわけではないが、きっとそうだったのだと思う。
その日も祖父は難しい顔をして、心ここにあらずといった風情で食事をとっていた。私はいつものように子供としての最良のスピードで、お行儀よく食事をとり終え、女性に手伝われながら子供用の背の高いいすを降りた。
そのとき、ジャンパースカートのポケットから、昼間秘密基地でひろったどんぐりが一粒こぼれ、祖父の足元までころころと転がっていった。私は慌ててそれを追いかけ、足元から祖父の顔を見上げた。
祖父はまるで興味がないようにこちらを見向きもしなかったが、見上げた先の幾重にも深く刻み込まれたしわが、なんだか重苦しく濃く広がっていくような気がして、私は衝動的に祖父のひじあたりの青いシャツのしわをひっぱった。祖父がいまにも泣き出しそうな、さみしそうな顔をしていたからだ。
祖父はそこで思い出したように私へその目を向けた。深い、真っ暗な海の底みたいな瞳は、困惑の色を濃く浮かび上がらせていたが、幸いにも嫌悪はないように思えた。背伸びをして祖父の手をとり、その手にどんぐりを握らせた。どんぐりごとちいさな手のひらで祖父の手を握ると、すこしずつ祖父の手があたたかくなっていった。
ちょうどさっきの菊さんのように、ふふっと口もとをゆるめ、祖父は私のあたまをひどく優しくなでた。あたたかい、あたたかい手のひらだった。
ぎゅうっと胸の奥が痛んで、私は祖父のひざにすがりついてわあわあ泣いた。祖父の濃紺のスラックスは、私の熱い涙をものともせずに無尽蔵に吸い込んでいった。
それからまもなくして、私と父と母の三人きりの生活が始まったのだった。
「私は優しくしてほしいから、優しくしてるだけです。下心ありありですよ」
独り言のようにつぶやくと、思いのほか沈んだ声になってしまった。しまった、と思ったが、菊さんは小首をかしげながら、再度繰り返した。
「さんは優しいですよ。優しくしてほしいひとは、あなたの好きなひとでしょう?好きなひとに優しくしたいと思うことと、同じことですよ」
私が保証しましょうと、菊さんは珍しくおどけた調子で言った。
本当にこのひとは不思議なひとなのだ。
私はいつも誰かに嫌われたくなくて、しゃべりながら、そのときの一番良い回答をひねりだすために、あたまをフル回転させるくせがある。誰かと接するときはいつも、そのひとの目や口もとやしぐさのひとつひとつを追いながら、目の前のひとが一番求めているのはどんな言葉だろうかと、考えてしまうのだ。
菊さんと初めて出会ったあの雨の日。実のところ私の心は最高にささくれ立っていて、そろそろキャパシティを超えそうになっていた。空から降ってきた雨が、私のなかであふれだした何かみたいに思えていた。
引っ越しを決めた父も母も、別れをさほど悲しんでくれなかった前のクラスメイトも、妙な時期に越してきた転校生に向けられる奇異な視線も、きゃあきゃあとうるさい女の子たちも。なによりも誰かと会話をするだけで、勝手に顔色うかがいを繰り返し、どっと疲れてしまう愚かな自分自身が。なんだかすべてが呪わしく、それでいてもどうでもいい気がした。どうにでもなればいいと思った。
なのに菊さんは、私のそんなこんがらがった胸のうちを、手まねきと、困ったような笑顔と、それから温かいお茶ですっかりほどいてしまったのである。ずっとほしかったものの全部が、ここにあるような気がしたのだ。
今もそれは変わらない。けれどももうひとつ、芽吹いたものがあった。
「私が一番優しくしたいのは、菊さんですよ」
「それは奇遇ですね」
今は、菊さんに一等優しくして、彼を甘やかしたいと思っている。それで、彼が私のことを好きにならなくても、私に優しくしてくれなくても、いつか私の目の前から消えてしまっても、それでもいい。ずっと彼が幸せで、笑っていてくれるのならば、それでいいのだと思える。
(2016.04.21)
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