ギルさんは出されたお茶とお茶請けをたちまちの間に空っぽにした後、何か別に用事を思い出しただのと、ごまかす気などさらさらなさそうないい加減な言い訳で席を立った。それにならって立ち上がった私に、彼は明け透けに咎める視線を送ってきたが、私はまるっと無視してカバンを持った。仮借ない舌打ちが飛んでくる。
菊さんは「もうお帰りですか」と、気の抜けたような頼りなさげな言葉を落とした。私もギルさんも目を合わせて動きを止めてしまう。菊さんは自分のつぶやきの意味するところをたった今理解したという顔で、ほのかに耳の先を朱色に染めた。どこか焦点の合わない寂し気なまなざしで、窓の外の宵闇を覗き込むように見てから、「だいぶ暗くなりましたね」と、立ち上がった。
「じゃ、また来るな」
スニーカーの右足の靴紐を結んでいる間に、ギルさんはさっさと出て行ってしまう。私は左の靴紐は解かずに足を突っ込んで、踵を踏んだまま彼の背中を追いかけようと立ち上がった。ギルさんの真意は分かっているつもりだったが、情けないことに私にその勇気がない。見込み違いですみません、と一人胸の内で謝罪しながら開きっぱなしの扉をくぐろうとしたが、菊さんの手がそれを制した。半袖のセーラー服から伸びた素肌に、菊さんの低い体温がじかに伝わってくる。その唐突で曖昧な熱は、私の腕を甘く痺れさせるのに十分だった。
「あの……」
「あぁ……すみません」
菊さんの声は混乱しきっていた。感情の収集がつかないように、瞳が左右にふらついている。自分のしたことが、したいことが分からないとでも言いたげなその顔は、いつも彼が重んじていたであろう思考の秩序が崩れ去っていて、ひどく拙く思える。
できる限り何の変哲もないいつもと変わらぬ調子で彼の名前を呼ぶと、無防備な表情を浮かべた彼と目が合った。しばらく何も言わずにそうしていると、霞みがかった瞳にいつもの静謐な光が戻り、菊さんは恥じらいを隠すように髪を撫でつけた。
ぽちくんが暗がりのなかからぽてぽてと愛らしい効果音でも聞こえてきそうな風情で現れて、彼の隣で行儀よくお座りをした。口には散歩用らしい真っ赤なひもを銜えている。菊さんは自分の足元の賢い愛犬に目を落としてから、ふっと柔らかく息を漏らした。
「少しご一緒してもよろしいですか」
「はい」
06.
夏の残渣を含んだ生ぬるい空気が私と菊さんの間を通り過ぎて行った。点々と灯っている街灯に似た、ぽつりぽつりととりとめのない会話をしながら、二人と、一匹で歩く。弾むようなぽちくんの足取りにひきずられるようにして。
ここのところ私が彼の家に行かなかったのは、家の手伝いが忙しかったことにした。ギルさんが余計なことを言い出す前に帰ってしまっていて良かったな、と素直に思った。背中を押してくれた(のだと思う、多分)彼には悪いが、私は今のままでいい。今のまま、ただ彼のそばで笑って、彼の笑う顔を見ることができれば上出来だ。――先程の彼の行動の真意など、知らなくていい。
「さん、少し背が伸びましたか」
「いつからの話してます?」
訝るように尋ねると、菊さんが声を立てて笑った。
「こうして、さん並んで歩くのは久しぶりですね」
「菊さんと会った頃は中学生ですからね。そりゃ多少は伸びますよ」
「その内追い越されてしまいますかねぇ」
「女子はそんなに伸びませんから。もう成長期も終わりですし」
「そうですか」
「何で残念そうなんですか」
「……あなたの移り変わる姿を、ずっと見ていたいなと思っていました」
菊さんが立ち止まる。大通りに面したT字路だった。ぽちくんが焦れたようにぐいっと一度だけ紐を引いた。けれども菊さんはただじっと、大通りを行き交う車の群れを眺めていた。
「ずっと見ていて下さい」
――あなたが私の傍にいられなくなっても。
辺りはすでに日が沈みきり、群れのヘッドライトが光のシャワーのように降り注いでいた。私たちの爪先だけがきらきらと閃光に飲み込まれて輝いていた。
菊さんがぽちくんの紐を持ち替えた。何度か逡巡するように影が動いたあと、先ほどよりか幾分柔らかくて高い熱が私の指先を包んだ。握り返すと、彼は手を引く素振りを見せたが、私は離さなかった。ぐっと力を込めると、困ったように笑う彼の顔が胸をよぎった。無意識に顔が綻ぶ。菊さんがもう一度、私の指先を握り返した。弱弱しくて、甘やかな感触だった。
ずっと、この温かさを覚えていたい。同じ時を過ごせなくても、たとえばいつかこの思い出が私を、彼を、苦しめるものになったとしても。ただ、今のこの瞬間、彼がほんの少しでも私に触れたいと、伝えてくれたこの熱を忘れることはできないだろう。私の短い一生をかけて誓う。
(2016.03.27)
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