あの日は、居間へは戻らず、玄関から声だけ掛けて、菊さんの家を出た。最後に涙を拭ったとき、思っていたよりもずっと瞼が熱くて、菊さんと顔を合わせるのが怖くなったからだ。
 両親が店から戻る前に、体調が悪いと嘘をついて、顔を合わせることなく眠りについた。けれども、目を閉じると、じりじりとひりつくような痛みが走って、焼きついたみたいに菊さんの背中が瞼の裏に浮かんできてしまう。そのまま眠れぬ夜を過ごした私の顔は、自分で思うよりもひどいものだったらしく、翌日は強制的に休まされてしまった。

 ゆっくり休みなさいと言われたが、私は扉の向こうの世界の音を聞いていたくて、予備の布団を引っ張り出してきて、一階の客間に敷いた。
 ちりんちりんという甲高いドアベルの音。不明瞭な誰かの笑い声。寄せては返る波の音のような騒めき。
 ゆっくりと瞼を閉じると、ちくりとどこかが痛んだが、ようやくもやもやした眠りが足元から這いよってくる気配がして、意識を手放すことができた。

 体感としては数分、でも実際には数時間後、どたどたという階段を駆け下りる二人分の足音で目を覚ました。ランチタイムの騒々しさが引いた頃、一度様子を見に戻ってきた両親は、私が部屋にいないことに焦って、転びそうな程のスピードで、階段を駆け下りたらしい。客間で呑気に伸びをしていた私を見つけたとき、二人は呆けたような表情を浮かべて息をついた。


05.



 習慣とは恐ろしいもので、それからも、今まで通り、菊さんの家へは何度も行った。何度も何度も行ったけれど、彼の家の灰色の塀が見えると、勝手に足が竦んでしまって、扉の前で数秒か数十秒逡巡してから、踵を返した。何度も。

 その日も、不審者よろしく、扉の前で所在なく立ちすくんでいたところだった。

「入んねえの」

 突然上から降ってきた声に、いたずらが見つかった子供みたいな気分になって、びくりと肩が震えた。反射的に俯いた先では、大きな影が私のそれを飲み込んでいる。

「こんにちは」
「おう。菊のやつ、いねえの」
「いや・・・多分いると思いますよ」

 振り向いてから、苦い笑いを噛み潰しながら答えると、ギルさんは思案げにすっと目を細めた。逃げるようにもう一度俯くと、「ちょっと付き合え」という言葉のあとに、彼が私の反応などお構いなしに歩き出すのが見えた。訳が分からなかったが、ここにずっといるわけにもいかず、黙って彼の後を追った。

 日が落ちるのが随分と早くなった。私はギルさんよりだいぶ後ろを歩いているのに、私の影は、もう彼の踵を捕まえている。
 そういえば今日は昼と夜が同じ長さになる日で、背後にある太陽が向こう側に落っこちてしまえば、昨日より幾分か長い夜が始まるのだ。

 菊さんの家を出てから、ギルさんは何も言わずにまっすぐ歩いて、一つ目の角を、私がいつも通る道とは逆の方向へ曲がった。この町にはもう慣れたつもりだったのに、この道へ足を向けるのは初めてだった。いつも自分の家と菊さんの家の間は、最短距離で駆け抜けていたから。できるだけ長い時間を彼と過ごしていたかった。

 見知らぬ道の先には、小さな公園があって、年季の入った感じのシーソーとブランコが設置されていた。公園のちょうど真ん中あたりには砂場があって、そこには小さな山がそびえていた。生きている誰かの息遣いがする。

 ギルさんは迷いのない足取りでブランコへ向かった。彼が一切の気遣いのない動作でそこに座ると、がしゃんと金具が悲鳴を上げた。それから、私に向かって隣のもうひとつに座れとでも言うみたいに、顎を動かした。この人は面食らうほどぞんざいな態度をとるが、不思議と不快感はなかった。遠慮も配慮もないその態度が、今はむしろ心地いいとさえ。

 耐久性に不安があったので、なるべく優しく丁寧に腰を下ろした。それでも不服そうに、ぎいという小さな声が続いた。

「お前さ、どう思ってんだよ」
「・・・と、言いますと」
「分かってんだろ」

 ため息まじりの声。私は伏せていた顔を上げ、隣のギルさんへ向けた。呆れたように歪んだ唇の上の瞳が、かすかに憂いを帯びているように思えた。

「どうしたらいいか分からないんです。菊さんが何を考えているかも。それがとても怖くて」

 ぐっと喉の奥がつまった。言葉を忘れてしまったみたいに、その先に進めない。

 菊さんが、子供をあやすときみたいに私に触れることはあっても、私から彼に触れたのは、あのときが初めてだった。ずっと微かに瞬く遠くの星みたいに、私の胸の内にあったものが、途端に膨れ上がってパンクしそうだった。察しのいい彼が、それに気づかなかったわけがないのに、私の方をわざと見なかったことが、ばかみたいに胸を締め付けた。いずれ別れがくるのだ。淡いまどろみみたいな幸せな夢を見ている内に、逃げ出してしまえという声が響いている。

「お前らほんとめんどくせえのな」

 体のそこかしこから集めてきた空気を吐き出すように、大きく大きくため息をついて、ギルさんが地を蹴った。途端にぎいぎいとうるさく唸り出すブランコをものともせずに、彼は高く高く。

「わかんねえだろ、先のことなんか。お前にも、俺らにも、たった今のこの瞬間しか、意味なんかねえよ」

 自分が作り出している悲鳴たちをかきけすように、ギルさんが言う。私は目の前で前後する彼におかしくなって、声を立てて笑った。なんだか無理やりたたき起こされたような気分だった。漫画みたいに、エプロンをつけたギルさんが、「起きなさーい」とお鍋をお玉で叩いている姿を想像して、一層笑いが膨らむ。
 この人は死ぬほど面倒見がいいのだ。その上、菊さんのことがとても好きなんだ。

 大きく息を吸い込んで、勢いよく地面を蹴った。ふわりと体が浮いて、なんだか気持ちまで軽くなったような気になる。風が目尻にたまっていた雫を、そっとさらっていった。





 「面白いもん見せてやるよ」とギルさんは言って、私を半ば無理やり菊さんの家へ引き摺って行く。力で勝てるわけはなかったし、私自身、やはり彼に会いたい気持ちがあって、大人しくされるがままにしていた。引き戸を開ける前、「後ろにくっついてろ」と耳打ちされ、訳も分からず従う。
 がらりと音を立てて戸が開かれ、どたどたと、らしくない足音が聞こえた。誰かお客さんが来ていて、その人の足音だと思ったのに、声で菊さんが玄関までやってきたのだと分かる。鼓動がうるさいほど響いて、目の前がちかちかと点滅した。

「ああ、ギルベルトくんでしたか」
「なんだよ、不服そうだな」
「いえ、そんなことはないですよ」
「誰か待ってんのか」
「・・・いえ」

 大きな背中で隠すようにギルさんが立っていて、私はようやく彼が「くっついていろ」と言った意味を理解した。歯切れの悪い菊さんの返事に期待と不安がないまぜになる。そわそわと落ち着かない気持ちで様子を伺っていると、「待ってたんだろ、こいつ」と嫌に楽しそうな声が聞こえたと思ったら、ギルさんが私の腕を掴んで引っ張った。あまりの勢いによろめいてしまう。転ぶほどではなかったのに、柔らかい手つきで肩を掴まれた。

「大丈夫ですか」
「はい、すみません」

 久しぶりに聞いた、私に向けられる彼の声に、緊張で顔を上げることができない。

「俺様に感謝しやがれ」
「ちょっと、ギルさん!」
「・・・ありがとうございます」

 弾かれるように顔を上げると、少し困ったようないつもの菊さんの顔があって、数年か、数十年ぶりに見たような懐かしい気持ちに襲われた。私に向けられる瞳が、少しだけ前とは違っている気がしたけれど、そんなことはどうでもいい。ただ、このときだけでいいと思える。
 背後でギルさんがさも愉快そうに笑っていて、菊さんは呆れたように肩を竦めた。

(2016.03.08)


|



Close