菊さんはその日読んでいた本を、私に読んでみて下さいと渡した。珍しく強引に。
 彼の家からの帰り道、ふと、カバンの中からその本を取り出し、一番後ろのページをめくった。やはり随分と古い本だ。私が生まれるよりも、もっとずっと前に出版されたものだった。私は菊さんがそうしていたように、さっきよりも丁寧にカバンのなかにそれをしまい込んだ。

「お母さん、ブックカバーってある?」
「あら、本でも読むの」

 言外に「珍しい」という意図が含まれているのを感じたが、そこには突っかからずに頷いた。

「多分あると思うけど・・・後で出しておくから、とりあえずごはん食べちゃって。作ってあるから」

 そう言うと、お母さんは慌ただしく「STAFF ONLY」の扉の奥へ引っ込んでいった。
 無計画で危ういものに思われた彼らの喫茶店計画は、存外順調のようだ。お店と家は入り口は別な代わりに、中で繋がっている。最近は、お母さんの作る定食メニューが好評で、日中は近所に住むお年寄りや子持ちの主婦、夜は会社帰りのサラリーマンや学生さんたちで賑わっているらしい。休日は私もたまに手伝いをすることがあって、時間を持て余した老人たちの恰好の餌食になることも多かった。

 お店に出ると特に思うが、正直、二人の目指した「純喫茶」になったかどうかと言われると、疑問符が浮かんでしまう。けれども、二人は毎日楽しそうなので、十分満足しているのだろう。
 お父さんは仕事を辞めてしまっていて、この家も貯金をはたいて購入している以上、簡単に引き返すことはできない。であれば、こんなはずじゃなかったと言いながら日々を過ごすのも、今に満足しながら日々を過ごすのも、結果としては同じことだ。そう思うと、二人の過ごし方は、我が両親ながらアッパレという感じだった。

 温め直した煮込みハンバーグと付け合わせ、冷蔵庫にあったサラダ、それからインスタントのコーンポタージュを作ってから、ごはんをよそった。それらを規則正しく並べれば、一人の食卓の準備は完了だ。
 お店は夜22時までやっていて、両親と夕飯を一緒に囲むことがなくなってから久しい。「いただきます」と目の前のごはんたちへ小さく呟いてから、黙々と箸を口に運んだ。微かに聞こえる扉一枚隔てた世界の音に耳を傾けながら、私は菊さんの言った「誰かの人生」という言葉を思い出した。


04.



 食事を終えてから食器を洗って、お風呂に入った後、ようやく二人は店じまいをして家への扉を開いた。お母さんは私の顔を見ると、「あ」と思い出したような声を上げて、引き出しのなかからブックカバーを取り出した。濃い茶色をしたそれは、いかにもな菊さんの本にお似合いな感じだ。
 受け取ったブックカバーと床に置いていたカバンを手に、「おやすみ」と短く告げてから、二階への階段を上った。中古だが、割合と新しいこの家は、あの家のようにぎしぎしといった返事はしない。

 ベッドに腰を下ろし、カバンのなかから取り出した本にカバーをかけた。やはりぴったりだ。一人満足して頷いてから、ベッドに寝転んで頁をめくった。風呂上りの、少し湿った髪が顔の横に落ちてくる。

 その本は太宰治の短編集で、菊さんが好きだと言っていた「葉桜と魔笛」というお話を目次で探して読み始めた。太宰お得意の女性独白体(菊さんの受け売りだ)で、なるほど確かに古い言い回しなのに、ひとつもつっかえることなくすとんと落ちてくる。

 数頁程度の短い話で、読んでいる時間は、数十分程度だったと思う。
 命わずかな美しい妹と、その妹の秘密を覗いてしまった姉の話。羨望と哀れみがないまぜになった姉の思いと妹の命の底からの叫びに応えるように聞こえてきた音楽。
 一字一字がぼんやりと光って見え、読み終わったときには言い知れぬ高揚感があった。それから、菊さんがこの話を好きだと言ったことに、勝手に切なくなった。

――汚い。あさましい。ばかだ。あたし、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。
――あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。





「『軍艦マアチ』ってどんな曲ですか」

 菊さんは、「そうきたか」とばかりに目を丸くした。

 あのあと一気に読み切って、翌日私は菊さんに本を返しにきていた。最初の話の余韻が、ずっと胸の内を渦巻いていた。本を手渡したとき、菊さんが特に感想を求めなかったので、私は他愛もない話をすることに決めた。

「こんな感じの、」と菊さんは唇を尖らせて音を出そうとしたが、隙間風みたいな侘しい音色が響いただけだった。私が思わずふふっと息を 漏らすと、菊さんの顔色が羞恥を帯びる。

「菊さんにもできないことってあったんですね」
「たくさんありますよ」
「何か嬉しいです」
さんはいつからそんな嫌味を言う子になったんでしょうか」

 やれやれと頭を振る菊さんに、私は声を上げて笑った。それからしばらく私の父親仕込みの口笛講座が催されたが、菊さんのそれは隙間風から「甲高い隙間風」程度にしか上達しなかった。
 「もういいです」なんて拗ねた子供みたいに言ってそっぽを向く菊さんがかわいくて、そっと彼へと手を伸ばす。初めて触れた菊さんの髪は、思った通り柔らかくて、手に吸い付くみたいな感じがした。菊さんの背中は一度だけびくりと震えたけれど、彼からの拒絶はなかった。私はそのまま緩々と手を動かし、彼の頭の形の良さをゆっくりゆっくり味わった。つるつると指の間をすり抜けていく髪が心地いい。どのくらいそうしていたか分からない。そうしていたかったか、分からない。

「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」

 いつかのときのように言い合ったが、菊さんはこちらを振り向かなかった。私は本を持って立ち上がる。

「これ、しまってきますね」
「・・・恐れ入ります」

 二階の本棚の部屋に入る。菊さんらしく几帳面に並べられた本たちの法則は、意外にもタイトル順だった。「は」行を探して背表紙に目を滑らせる。一つだけぽっかりと空いた寂しそうな空間を見つけて、そこに押し込んで、そのまま少しそこで息をついた。

 彼の背中は、『一人になりたい』とでも言いたげに見えた。ただ、それは明確な拒絶ではなく、混乱や戸惑いという感じがした。先程まで触れていた自分の手の平を眺める。それから指先に口づけを落とした。視界が震えて、その場に崩れるみたいに座り込んだ。
 困らせるつもりはなかった。ただ、彼の髪が触ってほしいと言った気がしたのだ。それは音になったわけでも、そこに書かれていたわけでもないから、単なる私の願望。

 ああ、あなたが好きです。
 ただ、あなたがそこにいるだけで、好きだと心が叫ぶんです。

 階下に聞こえないように唇をきつく結んだ。けれど、それは閉じ込めた先から溢れて、何度も嗚咽が漏れた。

太宰治「葉桜と魔笛」より一部引用

(2016.03.06)


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