03.



「本、好きなんですか」

 テーブルの隅に置かれた文庫本。少し日焼けした装丁。そっと手に取ると、古紙のざらついた感じが指先に残った。

 私が彼の家を訪れるとき、がらがらと引き戸を開けて声をかけると、菊さんとぽちくんはいつも甲斐甲斐しく玄関まで出迎えてくれた。だから、私がいない間の菊さんの時間が、どんな風に流れているかを、私は知らない。多分、この間のように、ギルさんや他の友人たち(ギルさんによれば彼らのような存在は大勢いるということだ)が来ているときもあるのだろうけれど、彼がひとりの間、何をしているのかが気になった。

 そんないたずら心から、今日は玄関からではなく、庭先からの侵入を試みた。そろりと裏口の門戸を開けると、鉄が擦れて微かに軋む音がした。ぽちくんはその音を当然のように察知したようで、縁側に出てしっぽを振る毛玉が見えた。私は祈るような気持ちで、人差し指を唇に寄せた。ぽちくんがいつもの困ったような顔で小首を傾げてから、私の訪問をご主人さまへ報告することはせず、大人しくそこにお座りをする。なんていい子なんだろう、と感動しながら、身を屈めて庭先に出た。

 そこは、部屋の中から何の気なしに眺めているときには気が付かなかったが、寥寥としていて、がらんどうだった。なぜだか一瞬足元を掬われるような危うい感覚に襲われた。
 わずかによろめいた私の様子に気づいたのか、ぽちくんが駆け寄ってこようとして、私は慌てて静止する。大丈夫だよと伝えたくて、微笑むと、ぽちくんは小さく小さく鼻を鳴らし、また同じように座りなおした。先程の奇妙な感覚には一度目を瞑ることにして、雑草のひとつも生えていない庭を這うように進んで、縁側まで辿りつく。そこから覗き見た菊さんは、いつもの場所に座って、本を読んでいた。ぴんと伸びた背筋。少し顔にかかる漆黒の柔らかい髪。頁をめくる繊細な指先。そこにいるのに、いないような。存在感が希薄で、私は焦って声をかけた。

「こんにちは」

 弾かれたように菊さんが本から顔を上げ、きょろきょろと視線を彷徨わせた後、縁側から身を乗り出す私をとらえる。髪と同じように真っ黒な目をこれでもかというほど丸くして、目覚めたばかりのように呆けた顔をした。

「こんにちは」
「こんにちは。ずいぶんと可愛い泥棒さんですねえ」

 もう一度、今度は肩を竦めながら遠慮がちに言うと、菊さんの唇が綻び、顔全体が楽しげな笑みを零した。透明に埋もれていきそうだった彼の輪郭が現実味を帯びて、私はやっとほっと息をついたのだ。

「好きですよ。さんはあまり本は読まれませんか」
「そうですね。現国の成績も散々です」
「おや、それは意外ですね」
「そうですか?なんだか・・・答えがいくつもあると、途方に暮れてしまうんですよね」

 赤いバツ印が踊る答案用紙を思い出し、苦々しい味が口内に広がった。
 このとき主人公はどう思っていたか。この文章に込めた作者の思いを述べよ。
 こんな問題を見ると、叫び声を上げて、昔の頑固親父ばりにちゃぶ台返しをしたくなる。だって、そんなの分からない。私は物語の主人公じゃないし、作者でもない。それに、一緒に過ごしていたって、その人の考えていることを100%理解することはできないと思うのに、紙の向こうの人たちのことなんて尚のこと分かるわけがない。

「どこが好きなんですか」

 不躾かと思ったが、至極単刀直入な物言いで問いかけた。そうしたら、菊さんは少し考えるような仕草をしたあと、何も言わずにすっと立ち上がって、私を先導するように歩き出した。今まで一度も上がったことがなかった二階への階段をのぼる。年季の入った軋む音が、二人の足音に続いていた。

 上がった先でひとつの部屋の扉を開けると、そこで菊さんはようやく振り向いて私を見た。手招きする。いつか見た光景と重なって、胸が締め付けられる。ぐっと息を飲んだが、悟られないように素知らぬ顔で彼の横を通り抜けた。雨上がりの湿っぽい草木のにおいと、少し甘い香りが鼻をくすぐる。そこには、天井まで伸びる大きな本棚が四方に並べられ、窓まで本棚で塞がれていた。先程くぐった扉から漏れる光だけが、そこに敷き詰められた本たちを照らしている。

 秘密基地みたいだ。小さい頃、友人と遊んだ森の奥の大きな木の幹を思い出した。
 適当に拾った木の枝を太い幹に何本も何本も立てかけて、その上に葉っぱを散らした。その下の、湿った土の上に家から持ってきたみかんの絵の描かれた段ボールを敷いて腰を下ろした。屋根というには隙間だらけで、光線みたいに差し込む光が私の頬を、彼女の額を照らしていた。何がおかしいのか分からない。分からないのにおかしくて、それとも分からないことがおかしかったのか。夕暮れ時までずっと、そこでおしゃべりをしていた。
 彼女の、友人の顔も名前も思い出せない。そんな記憶。

「秘密基地みたいでしょう」

 妙に誇らしげな声だった。考えを見透かされたのかと思ったが、それよりも同じように考えていたと思った方が幸福だ。「同じこと考えてました」と言うと、菊さんが嬉しそうに微笑んだので、私は素直に幸福に沈む。

「すごい量ですね」
「手入れのためにたまに陰干しするんですが、これが大仕事で」
「今度手伝いますよ」
「爺孝行ですねえ」
「はいはい」

 腰をとんとんと叩いて、必要以上に年配のそぶりを見せる。菊さんが時々見せる仕草。私の嫌いな、仕草。

「私が、本を好きな理由、知りたいですか」

 菊さんはとても丁寧にそう言った。私が声もなく頷くと、菊さんが扉を閉めて歩み寄ってくる。真っ暗になるかと思ったら、今度は塞がれた窓が存在を強調するように光を運んでくる。本と本の隙間から差し込む光がオレンジに染まっていて、時の流れを知らせた。菊さんが腰を下ろし、自分の隣の床を手のひらで二度優しくたたいた。私はそこに座って、彼と一緒に本棚の向こうの窓を眺めた。横目で菊さんを盗み見ると、もっと遠くを見る目をしていたから、彼は本棚の向こうの、窓の先にある、夕暮れの落ちていく太陽を見ていたのかもしれない。

「本は、私にとって、誰かの人生なんです」

 菊さんが独り言のようにつぶやいた。

「私は、長く生きていますが、人と深く関わることがなかったものですから。道行く誰でもない人たちが、どんなことを考えて、どんな風に日々をやり過ごしているのか、知りたいと思ったんです。もちろん、フィクションですから、真実の、というわけではないかもしれませんが、少しでも理解したかったんでしょうかねえ」

 他人事のような響きが、先ほどの彼の目を思わせた。私が何も言えずに押し黙っていると、ふふっと彼が思い出したように笑う。

「そういえば、さんが来るようになってから、随分と本を読む時間が減りました」

 日が落ち切ったのか、本棚の隙間から漏れていたオレンジが、最後の力を振り絞るように瞬いたあと、向こう側に落ちていった。隣にいる菊さんが、暗闇に飲みこまれて見えない。彼が今、どんな顔をしているのか、何よりも知りたいのに。

(2016.03.05)


|



Close