「私、日本なんです」

 菊さんがあまりに事もなげにそう言うから、私は最初、聞き間違いをしたのだと思った。
 ニホン、にほん、日本。口のなかで確かめるように反芻しても、まるで飲み込むことができない。一瞬だけと、そっと彼へと視線を走らせた。本当に一瞬のことだったのに、菊さんは私の視線の動きを完璧に予測していて、完全に目が合ってしまった。逃げられないことを悟り、おずおずと「どういう意味ですか」と聞くと、菊さんはほんの少しだけ寂しさの混ざった瞳で私を見据えた。辞書に書いてあるような「日本」の言葉の意味をとうとうと述べてから、その後三つの説明を加えた。

・ずっと長い間生き続けていること
・外見は時を経てもほとんど変わらないこと
・大人になると人には見えなくなること

「大人って?」
「おや、そこに気づくとはお目が高いですね。さすがさん」

 私の問いかけに答える代わりに、菊さんは珍しくおどけた調子でそう言ったが、その後に言葉が続くことはなかった。「冷めてしまいましたね」と、二人分の湯呑をお盆に乗っけて、ひとつ息を強く吐いてから立ち上がり踵を返したその後ろ姿から、この話はおしまい、という菊さんの意思表示が見てとれて、私もそれ以上何も言えなくなってしまった。

――私はいつ、あなたが見えなくなってしまうのですか。


02.



 家路の途中にある菊さんの家は、寄り道するのに恰好の場所で、私はぽちくんと遊ぶという名目の下、たびたび彼の家を訪れた。懐かしい感じのする畳の上を素足で歩くのが好きで、なによりも菊さんと明日には忘れてしまうようなたわいもない話をするのが好きだった。柔らかく穏やかな表情を浮かべながら、私の話に耳を傾けてくれる菊さんが好きだった。

 元来、要領の良い方だったから、転校先でもそれなりにうまくやれる自信はあった。けれども、やっぱり本当は引っ越しなんかしたくなかった。演技の自信はあっても、その実行は相応に心をすり減らす必要があったから。かと言って、少年少女のような幼い瞳を向ける両親のそれを曇らせる気にはなれなかったから、我ながら物わかりの良い娘だと思う。
 そう言ったとき、菊さんは一度、私の方へ手を伸ばしかけてから、すぐに躊躇うように開いていた手の平を軽く握り、きまり悪げに苦笑した。その動作の意図がすぐには分からなかったけれど、二人の間にあるテーブルの上に取り残されたみたいな菊さんの腕を見て、彼が「いい子いい子」をしようとしたのだと気が付いた。中学生の思春期真っ盛りの女の子を、まるで幼稚園児(贔屓目に見ても小学校低学年くらいだろうか)のように扱おうとした自分に、はっとなって笑ったのだと分かった。それに気づいたとき、私は私たちの間を隔てる何かに、ぼんやりとした寂しさを感じたが、それでいいのだとも思った。

 菊さんの腕に寄り添うように、テーブルの上に頭を横たえる。撫でていいですよ。言葉にはしなかったが、そう言っているのが分かったみたいで、おかしそうに笑う声が聞こえた後、ややあって、つむじの上に手のひらが乗せられたのが分かった。そのままゆっくりゆっくり、私の頭を撫でながら、指先で髪の毛を掬った。私の頬の熱を、ひんやりしたテーブルが奪っていく。あまりに優しい触れ方に、少しだけ泣きたくなった。

「ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」

 菊さんの手が引かれた後も、気持ちを落ち着かせるようにしばらくそのままでいた。片目で見上げるように菊さんを見ると、満足げに微笑んでいるからつい笑ってしまった。まどろむようなぼんやりした熱が頭上を漂っていて、怖い程幸福で、同じくらい寂しくて、笑えた。

 その後、すぐにまた春がやってきて、二度の季節を超えて、私は高校生になった。新しい制服に初めて袖を通したとき、鏡越しの自分の姿が中学のそれよりいくらかマシに見えた。菊さんに見せたい。そのまま意気揚々と家を飛び出し、菊さんの家へ向かった。
 いつもの調子で声だけかけて、返事を待たずに引き戸を開けて上がり込むと、およそその家に似つかわしくない銀髪の男の人がいて驚いた。私よりもいくらか背の高い菊さんよりも、もっとずっと大きい。ぽちくんが彼に寄り添うように座っていて、私はほっと胸をなでおろす。少なくとも泥棒とかそういう類の人ではなさそうだ。

「菊の知り合いか?」
「はい。すみません、いらっしゃると思わなくて」
「いや・・・ああ、お前か」

 彼は当たり前のように私の名前を口にして、片側の口の端だけを引き上げた。敵意はないように思えたが、無遠慮に訝るような視線にも感じられて、少し身構えてしまう。彼は犬や猫を呼ぶときみたいに手招きした。逃げ出そうとしていることがばれたみたいだ。

「菊さんのお知り合いの方ですか?」
「ああ。ギルベルト・バイルシュミットだ。ギルでいい」
「ギルさん」
「『さん』もいらねえよ」
「いえ、そういうわけには。年上でしょうし」

 口にしてから、はっとして彼を見た。ギルさんは、目を合わせたまま、「お前よりはだいぶな」と言った。
 ああ、そうか、彼も。
 この部屋で彼を見たときから感じていた予感めいたものが、確信に変わった。他に同じような存在がいるのかと、尋ねたことはなかったけれど、きっといるんだと思っていた。菊さんはときたま「会議に行ってきますね」と、詳細は告げずに家を空けたし、何より途方もない時を生き続けるのに、彼が一人ぼっちであるとは思いたくなかった。

 お茶菓子を切らしたといって、菊さんは出かけているらしい。ギルさんはその間退屈しのぎに私の相手をしてくれた。不躾かと思ったが、国のことを尋ねると、「プロイセン」だと教えてくれた。社会科のなかでも、地理は得意ではなかったが、歴史の授業で習ったような気がして、頭のなかでページをめくる。脳内の教科書のなかから答えを見つけたあと、私は何も言えなくなってしまった。。口ごもる私に気づいたギルさんが、苦い笑みを浮かべた。

「かわいくねえ顔」
「うるさいです」

ギルさんの軽口に、私も思わず同じように返した。

「お前、菊から何て聞いてんの」

 俺らのこと。俺ら。私とは違う。
 ギルさんの問いかけに、私は菊さんから以前聞いた三つを口にした。それを聞いたギルさんが、何か言いたげに「へえ」と歯切れの悪い相槌を打った。

「ああ、さんいらしてたんですね」

 ギルさんへの疑問符が言葉になる直前、引き戸の開く音がして、私の靴を見つけたらしい菊さんの声が続いた。私は弾かれるようにして立ち上がり、玄関へ向かう。走り出した背中に、けせせ、と独特な笑い声が投げられた。

(2016.03.01)


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