何にも気づかない子供のフリをして、ずっと傍にいたかった。
 あなたの体温を感じられるほどの距離に近づけなくても、一生その手に触れられなくても、私はそれでも良かった。本気でそう思っていた。


01.



 我が家がこのあたりに引っ越してきたのは、私が中学校へ入学して、新しい友達もでき、やっと落ち着いたかなと思える頃だった。「喫茶店を開きたいんだよ。純喫茶っぽいやつ」と、仕事から帰ってきたお父さんが目をきらきらさせながら語る様を、うっとりとした表情で聞くお母さんを見たときから嫌な予感はしていた。
 外装、内装、椅子、机、アンティークの小物。あるときからその「将来の夢」談議に私まで巻き込まれるようになり、取り寄せたカタログやパソコンの画面とのにらめっこに参加させられ出したあたりで観念した。

 新しくできた友達との別れは、まだ出会って半年程だったことも手伝って、相応にあっさりしたもので、少し前から覚悟していた私は、涙の一粒もこぼすことも出来ずに教室を去った。しかし、新しい出会いは別だ。最初につまづくと――といっても、既に半年のハンデを背負っているが――巻き返しがきかない。子供の世界は、大人が思っている通り単純で、大人が思いもよらないほどシビアなのだ。

「はじめまして。です」

 緊張して少し声が上ずったが、転校初日は概ね成功といえるものだった。クラスの女子グループのひとつから校内を案内してもらい、彼女たちとお昼休みを一緒に過ごした。かしましいが気さくな子たちで、なんとか仲良くなれそうな気がする。ほっと胸をなでおろしながら家路に着いた。
 学校を出てすぐに彼女たちと帰り道が別れたのが少しだけ有り難かった。新しい学校指定のカバンを肩にかけなおして、皆にばいばいと手を振った。大きく息を吸い込む。湿った空気の青臭いにおいが鼻先をくすぐった。もうすぐ雨が降るかもしれない。早足で歩き出せば、すぐにぽつりと小さな雫が頬を叩いた。慌てて走り出したが、夕立は勢いを増し、このまま走っても家に帰り着く頃にはびしょ濡れになってしまいそうだ。走りながらちょうどいい軒先を見つけて、家人に頭を下げるつもりで家に向かって小さくお辞儀をして、体を滑り込ませた。カバンからハンカチを取り出し、頭と肩についた雫を払う。

 しばらくやみそうもないなあ。深いため息とともに肩を竦める。少しずつ温度を下げていく風に首筋を撫でられ、ぶるりと体が震えた。右手で左腕を擦ると、制服はしっとりと濡れていて冷たくなっていた。雨の勢いはいよいよ増していて、このままここにいてもいつやむか分からない。
 せっかく初日を乗り切ったのに、翌日風邪をひいて休むなんてことになったら、今日の苦労が水の泡だ。仕方がないと、肩からカバンを下ろし、胸元に抱えて走り出そうとしたとき、背後の引き戸ががらりと開く音がした。その音に勢いを削がれ、反射的に振り向くと、そこには着物姿の男の人が立っていた。

 その人は、大人の男の人というには幼い気がしたけれど、男の子と言うのは憚られる、およそ普通ではない雰囲気の人だった。見たこともない古臭い着物に羽織を肩に引っ掛けて、足元は草履をはいていた。およそ時代錯誤なその出で立ちが、彼には不思議と良く似合っていた。
 縫い付けられてしまったみたいに視線が動かせず、じっとしていると、「おや」と、その人が誰に向けるでもなく言ったのが聞こえて、はっと我に返った。

「すみません。少し雨宿りをさせてもらっていました。すぐ退きますので」

 ぺこっと申し訳程度に小さく頭を下げて、先程の動作の続きを行うために再度カバンを胸元でぎゅっと抱えた。そうしたら、彼が小首を傾げて曖昧な笑みを浮かべながら、「少し休んで行かれませんか?」と言う。出かけるはずであったろうに、片手に携えていた傘を傘立てに入れると、今度はにっこり笑って「どうぞ」と手招きをした。

 後から冷静に考えると、随分怪しげな状況なのだが、彼の柔和な雰囲気と室内から漂ってきた温かい空気に抗えず、私はもう一度、今度は気持ち深くお辞儀をしてから、彼の後に続いた。
 家のなかにはぽちくんというまるで毛玉みたいなふわふわでころころした犬がいて、私を見つけると「わん」と鳴いたあとに愛嬌たっぷりに短いしっぽをぶんぶん振りながら迎え入れてくれたので、最後にほんの少し残っていた警戒心も明後日の方向へ飛び去って行ってしまった。一気に顔を綻ばすと、男の人は丁寧に自分の脱いだ草履を並べてから、「ぽちくんがご案内しますよ」と言って、廊下の先に消えていってしまった。私は後ろ手に引き戸を閉めて、慌てて靴を脱いだ。
 玄関に上がると、じとりと湿った靴下が足跡をつけてしまって、慌てて靴下を脱ぐ。お昼を買ってそのままカバンに突っ込んでいたコンビニの袋に濡れた靴下をしまい込んだ。足元でぽちくんがくるりと身を翻し、淀みない足取りで歩き出す。私は濡れた足をハンカチで乱暴にふき取りながら、ぽちくんに続いて廊下を進んだ。

 ぽちくんが案内してくれたのは、畳敷きのこれまた古風な和室で、フローリングの床に慣れてしまった私の足に、畳は物珍しく感じられた。机――多分ちゃぶ台というやつだ――の奥に置かれた座布団の横に、ぽちくんがちょこんと座ったので、私はお言葉に甘えてその座布団に腰を下した。
 きょろきょろと部屋中に視線を滑らせながら、ぽちくんの背中を撫でる。ふわふわの向こうに人間よりもいくらか高い熱があって、私の冷えた指先を温めた。ほとんど物のないその部屋は、生活感がないのになぜだか懐かしく感じられて、胸の奥が小さく軋んだ。押さえると、どくどくと脈打つ鼓動が手のひらに伝わる。

「さあ、温まりますよ」

 お盆にお茶と茶請けらしい和菓子を乗せて、先ほどの男の人が現れた。私が畏まって姿勢を正して正座の恰好をとると、ふふっと息を漏らして笑った。

「せっかくお誘いしたのですから、気を使わないでください」
「いえ・・・なんだかすみません」
「おや、私が言い出したのですから、あなたは謝る必要なんかありませんよ」

 目尻が下がる、優しい笑い方。吸い込まれるように見つめると、彼が照れたように目を逸らした。それで私も気恥ずかしくなって、慌てて視線を外す。机に置かれた湯呑を両手で包むと、じんわりと熱が伝わってきて、指先から解凍されていくみたいに快感が走った。

「お名前をお伺いしてもよろしいですか?私は本田菊と言います」
です」
さん。きれいなお名前ですね」

 そう言った菊さんは、私の名前なんかより遥かに綺麗で、ひどく落ち着かない気分になった。
 ごまかすように湯呑を傾けると、思いのほか一気に口のなかに流れ込んできたお茶で舌を火傷してしまう。あちっとほとんど生理的に声が漏れて、菊さんが目を丸くしてから声を立てて笑った。「慌てないで。ゆっくりしていって下さいね」小さい子供に言い聞かせるように、慈しむように目を細めた菊さんに、私の舌がじりじりと痛んだ。

 これが、私と菊さんとの出会いで、その後すぐに菊さんが「国」という、自分の理解の範疇をはるかに超える存在であることを知った。でも私は、それを知る前にはもう、

(2016.02.29)


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