私が合格通知を一番に見せたのは、やっぱり菊さんだった。合格通知を受け取ったとき、もしそばに両親がいたのならば、まず彼らに見せたのかもしれないが、生憎そのとき両親は二人ともお店に出ていて、私は家でひとりきりだった。それに、私はなによりもとにかく彼に会いたかったのだ。
受験日が近づく頃には、さすがの私も予備校に通っていて、しばらくの間彼に会うことを禁じられていた。それは様子がおかしいと見た両親からロミオとジュリエットよろしく二人の仲が引き裂かれたというわけでも(そもそも二人は彼の存在を知らないし、なによりそんなに色っぽい関係ではなかった。残念ながら)、もちろん私が所謂願掛け的に決めたことでもなく、ほかでもない菊さん本人からそう言い渡されたのだった。
私自身は、彼の家の居心地の良さに、かなり集中して勉学に励むことができているつもりだったのだが、菊さんからすると少々心配だったらしい。多少反論は試みたものの、当の家主が頑として譲らないのだから、お邪魔している立場でしかない私は、泣く泣く予備校の直前対策講座に通うことになった。
しかし、実際に予備校に通うようになってからは、菊さんの配慮に少なからず感謝せざるをえなかった。彼に会えないことはそれはもう寂しかったし、彼の家でのそれまでの勉強ももちろん役に立っていた。なによりもここに至っても受験勉強を嫌いにならずにいられたのは、煮詰まったときに彼の見てきたように語ってくれる昔々の物語(実際に見たんだろうか)や、休憩時間に出してくれる甘くてきれいな和菓子と熱いお茶、それから菊さんとのたわいもない空気みたいな会話があったからだ。とはいえ、予備校には同じ方向を向いて必死な表情を浮かべる同年代のひとたちがいて、なんとなく鬼気迫る焦燥感は、なるほどラストスパートにはうってつけの場所なのだと思った。
ただしこの場合、受験勉強など恐らく経験していないだろう菊さんに対して、年の功だなといった感想を持つべきかは非常に難しいところだけれど。
久しぶりに顔を合わせた菊さんは、私の表情からすべてを読み取ったようで、「こんにちは」でも、「お久しぶりです」でも、「髪伸びましたね」でもなく、ただ静かにうやうやしく「おめでとうございます」と言った。合格通知を両手でさも誇らしげに掲げながら、「もっと褒めてください」と私がにんまり笑って見せると、彼はようやく「お久しぶりです」と、懐かしく目元を綻ばせた。
お祝いは何がいいですか、と聞かれたので、私は用意していたとおり、彼の家の合鍵を所望してみたのだが、菊さんはそれに盛大にふきだしたあと、少しむせながらもきっぱりと拒絶の意を示した。唇を尖らせてあからさまに不平を漏らしても、彼は思いのほか頑なで、もともと了承してもらえるとは思っていなかったが、面白いものが見れたと私は内心嬉しくも思っていた。あまり人に見せたことのない表情を見れるのは、私だけの特権のような気がするのだ。
「真面目に考えてください」
「えー、真面目に考えた結果ですよ」
「はいはい」
「じゃあ…就職祝いと一緒でいいです」
今ちょっと思いつかないので。
早口にそう続けた。菊さんは困ったように眉根を下げて笑っていた。私の言葉に、了承も拒絶もせずに。ただ、夕暮れの海のような穏やかな表情だった。
――大人になったら見えなくなる。
もうずいぶん昔に聞いた彼の秘密。私は時々それを記憶の箱から取り出しては、じっと眺めて、そう告げたときの彼の横顔をそっと思い出している。
私が私自身の思いを自覚してから、私は私がこの秘密を思ってこぼした涙や痛めた胸の分だけ、彼にも私と同じ辛さを味わってほしいと思っていた。この報われない恋のお葬式には、少しでもいいから心を乱し、ほんの数秒でも構わないから一緒に泣いてほしいと思った。
彼が私の手を握り返してくれた日から、私は彼が一体どんな気持ちで私にこの秘密を伝えたのか知りたいと思っている。国という確固たる、けれどもひととしてはひどく不確かな存在であるところの彼。別離を背後に感じながら、ひとと接するというのはどんな気分がするのだろうか。そのことを考えると、私は自分がとても罪深く感じられた。それから、彼が少しでも幸せに、どうか苦しむことがなければいいと思うのだ。
08.
「庭に何か植えないんですか?」
縁側でアイスを食べていた。菊さんはグレーの濃淡のある縞模様が涼しげな着物を着ていた。私と菊さんの間には、へばり切ったぽちくんがぐったりと鎮座している。一台だけの扇風機はずっと私たちの方を向いていて、私たちにまとわりつく生ぬるい空気を吹き飛ばしながら、ぐるぐると絶え間なく羽を回している。
ぽちくんは少しでも冷たいところを探そうと、だらしなく身をよじった。私はそれに頬を緩ませながらそっと彼に手を伸ばし、彼のもこもこの毛に指先を埋めた。そうしたらすこし湿った生き物の熱が伝わってきて、うわっとちいさくこぼして手を引いてしまう。ずりずりと床に腹ばいになりながら、ぽちくんが恨めしそうに私の方を見た。
「植えようと思ったこともあったんですけどねぇ。…何にするか決められなくて」
扇風機の羽が作り出した風が菊さんの前髪をふわりと撫でていく。額が露わになると、菊さんの瞳がよく見えた。どことなく遠くを見ている気がして、のぞき込むように見つめると、彼の頬がかすかに色づいて、すぐに目をそらされてしまった。アイス溶けてますよ、と笑いを含んだような声が続く。
見れば、確かにどろりと甘い蜜が木の棒をゆっくり伝ってきている。慌ててなめとって、そのまま最後の一口をはぎ取った。手に残った棒には"はずれ"の文字。
「花言葉の本、それで買ったんですか?」
アイスの棒を行儀悪く口で銜えながら、にやりと唇の端を上げて尋ねた。菊さんがぎょっとした顔で私と目を合わせる。それからあからさまに嫌そうな顔をした。
感情をしまい込もうとしない明け透けな彼の面差しに、私は思わず怯んでしまったんだと思う。きっと、からかうように引き上げていた唇は引きつって震えていた。
彼への気持ちをはっきりと自覚したあのとき、私は彼の秘密基地で、その古ぼけた一冊の本を見つけた。"葉桜と魔笛"の近くに、本の扱いが丁寧な菊さんには珍しく(実際、彼から借りた本たちは年季は入っている感じはしたが、とてもきれいで、借りている間はひそかにずっと緊張していた)背表紙のはじが毛羽立つようにぎざぎざに傷んでいたので目についた。
涙を拭って何度か深呼吸したあと、手にとってぱらぱらとめくった。
花言葉。色とりどりの花々の写真の横に、それぞれの花言葉と由来らしき文章が羅列されている。本来事典ほどの分量を文庫サイズに圧縮したもののようで、そのときの暗がりのなかでは、その小さな文字たちを読み取ることは難しかった。
けれども、その本には水でも零したみたいにところどころふやけて波打ったページがあることは分かった。丸く波紋のように広がった波に指先を這わすと、ぱりぱりと固い感じが伝わってきて、私は胸が押しつぶされるような、苦しい感じがしたのを覚えている。なぜだか、あの何もないがらんとした庭を思い出していた。
「笑わないと約束できますか?」
じとりと、言外に反論は許さないという感じを含めながら、菊さんが言った。私は引きつっていた頬を元の位置に戻してから、ぶんぶんと頭を振った。それはもう従順な態度だ。
菊さんは私と目を合わせることはしなかったが、ようやく少しリラックスしたように肩を落として、ほうと息をついた。わずかに気づまりのする沈黙が流れたあと、彼がゆっくりと重たそうに口を開いた。
「何か植えようかと思ったこともあったんですが…。あ、それで、あのさんが見た本を買ってきたんですよ。まったく…もう少し奥にしまっておくんでした。油断してましたね」
菊さんの唇が緩む。私もそのときになってようやくほっと息をついた。
「ご存知かもしれませんが、花言葉って本当にたくさんあるんですよ。それこそ花の種類だけではなくて、色ごとにあったりして、本当に色んな意味があるんです。やっぱりせっかく植えるなら、何か良い意味を持つ花がいいなと思いまして、何度も何度も読み返しては考えてみたんですが…その内に疲れてしまって。それで、今もこの有様なんですよ。…まぁ、夏はこれはこれで涼しげかもしれませんね」
ふふっと笑いながら、自分の手元を見ていた菊さんの視線が庭先に移った。私もそれに倣って、顔を上げた。
茶色い庭。茶色いだけの庭だ。雑草ひとつ生えていないのは、よく手入れされているともいえるのかもしれない。午前中に二人と一匹で遊びながらまいた水は、もうすっかり蒸発してしまっていた。じりじり照り付ける太陽のせいで、地面は歪んでいるようにも見える。
「…涼しげ、ですかね?」
寂しい、とは言わなかった。
「自己弁護ですよ、もう。…本当にあなたときたら」
菊さんが隣でぶつぶつちいさく文句を言っているのが聞こえる。そっと彼の方を向くと、手を引かれてぽちくんのふわふわに突っ込まれた。じわりと熱い。またうわっと声が出てしまい、ぽちくんにまた睨まれてしまう。
菊さんがけらけら笑っている。頭上で風鈴がちりんちりんと可憐な音を響かせている。背中で流れていく汗が小道を作っている。
夏だ。夏だなぁ。
「では、選んでくれますか?」
菊さんとしばらくぶりに目が合った。私と同じように、彼の髪の毛も水分を含んでぺたりとこめかみにくっついている。私はそれにかすかな安堵を覚えていた。
「いいんですか?」
「ええ。さんが選んだものなら、何でもいいですよ」
「あ。じゃあ、あの本、貸してください」
菊さんの顔がわずかに引きつったが、私は構わずただまっすぐに彼を見つめた。それからへらっと笑って、とびきり変な花言葉のやつ選んであげます、と言うと、彼は呆れたように視線を外す。
「よしなに」
笑う。目を合わせて、二人で、笑う。
夏だなぁと思った。このひとと過ごす、何度目かのうっとしく熱を帯びた愛しい季節だ。
(2016.05.18)
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