
梅雨の時期は憂鬱だ。雨が降っていようといまいと、空気が確かな質量をもってからだにまとわりついてくる感じがする。もともとねこっ毛気味の髪は、毎朝取り扱い注意のプラカードでも下げておきたいくらい、ぼわぼわとだらしなく暴発してしまう。
今朝もドライヤーと寝ぐせ直しに最適と口コミサイトで評判になっていたヘアミストをお伴に、壮絶な戦いを繰り広げてきたところだった。
髪は女のいのちというけれど、それは半分は本当のことだとわたしは思う。髪をしっかりとセットしているだけで、随分ときちんとしたこぎれいな印象を与えられるし、逆もしかりだ。
田舎から出てきたばかりの頃、垢ぬけたいがために色々努力したものの、メイクや服装の勉強ももちろん効果はあったけれど、ヘアアレンジを覚えたあたりから、目の前が開けた感じがしたのは、きっと気のせいではなかった。
「先輩」
しっかりまとめてきたはずなのに、どうもしっくりこない感じがしてうなじを撫でているときだった。背後から声をかけられて振り向くと、長身のイケメンが立っている。今年の4月に入社してきた彼は、目の保養になると評判のかわいい後輩くんだ。
直属の後輩ではないけれど、波長が合うのか妙になつかれているらしく、隣の部署の人間だというのに、こうして日に何度か声をかけてくれる。
先日、別部署の同期とランチ中にすれ違いざまにちいさく手を振られたときは、さすがに口もとが緩むのを抑えられなかった。すこしきつめの目もとがやわらかく細められるのを見ると、ほわっと胸があたたかくなって、嫌な仕事もちゃちゃっと乗り切ろうと思えるのだから、さすがイケメンは正義というやつである。
今朝も朝からさわやかにかわいい"おはよう"を頂いていたのだけれど、どうにも決まらない髪型の方が気になって、目も合わせずに挨拶を返したことがすこし気になっていた。
とはいえ、タイミングが悪いというかなんというか、いまは絶賛決まらない髪型の原因を探り中なのだ。すこしの罪悪感を胸に抱きながらも、まあどうせ明日も会うのだから明日フォローすればいいか、なんて気安さも感じているのは事実だった。ああ、ルクセンくん、ちょっといま急いでて、などと適当な返事をしながら、彼の次の言葉も待たずに当初の目的である化粧室へ向かうために踵を返した。
歩きながら指先に当たったヘアピンを引き抜こうとしたところ、絡まってなかなかうまくとれない。ちいさく舌うちをして、まあいいか、とさらに足を早めたところで、後ろからぱたぱたと足音が追いかけてきた。
「先輩」
もう一度呼び止めるのと同時に、今度は彼はわたしの腕をつかんできた。仕方なく振り向くと、いつもの見目麗しい顔がある。
「どうしたの?何か急ぎ?」
声にわずかに苛立ちがまざってしまったかもしれない。髪の毛にひっかかったヘアピンが、後頭部あたりでぶらぶらと揺れてる感じが不快で、思わず八つ当たりしてしまった。
「ちょっといいですか」
ルクセンくんの言葉は問いかけではなかった。向き合ったまま、彼の長い手がわたしの後頭部に回り、器用にヘアピンを外し、わたしの気になっていたおくれ毛を収めてくれたようだった。どんよりと決まりの悪い感じがなくなっている。
そうなってくると、俄然先ほどの自分の態度の悪さが恥ずかしくなってしまったのだけれど。
「ありがとう。なんかごめんね。上手だね」
「いえ。不機嫌の原因はこれですか?」
口もとに手を引き寄せて、ルクセンくんが抑えるように笑った。喉ぼとけが楽しそうに揺れているのを見ていると、わたしの恥ずかしさはさらに深まったが、さほど嫌ではないから不思議だった。彼のその笑いは、まるきり無垢であたたかい感じがした。
「髪がね、決まらないとなんか気合入んなくて。情けないところ見せちゃったね」
照れ隠しに後頭部に指先を寄せて唇だけで笑いを作る。指先にあたる髪の毛の滑らかさが、彼の仕事の正確さを物語っていて、思わず感心してしまっていた。
「いえ。美人のちょっと情けないところが見れるなんて、むしろ得した気分ですよ」
裏も表もなさそうなつるりとした言葉を吐いたあと、すぐに自分の言った言葉に慌てたのか、ルクセンくんは、あ、自分ちょっと今性格悪かったですかね?といたずらっぽく笑ってみせた。
(2016.04.20)
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