
いつも見ていた斜め前の席の形の良いまあるい頭。柔らかいグレーの髪の毛は、きっと色だけではなくてさわったら柔らかいのだろうなぁと思う。少し手を伸ばせば触れられてしまう距離にいるのに、見ているだけで何もできないわたしに、友だちは呆れたように笑っていたけれど、たぶんこれでいいのだ。だって、彼のとなりにはいつも同じかわいい女の子が座っていた。栗色にきれいに染められた髪の毛の先をふわりと一巻きしていて、盗み見た横顔はとても美しかった。長い睫毛が頬に影を落とすさまは、女の私ですら見惚れるようだった。勝負を挑む前に負けている。あまりに完膚なきまでの敗北は、いっそのこと清々しい思いを私に抱かせた。
「隣、いい?」
ときどき盗み聞いていた耳障りの良い声が、横から降ってきたから驚いた。おそるおそる振り向くと、あの形の良い頭の彼が立っていて、私と目を合わせたあとに、隣の席に置かれた荷物に瞼を落とした。舌を噛みちぎりそうな勢いで承諾の返事をしたあと、力任せに荷物を自分の方へ引き寄せる。腰を浮かせて反対側の空いていた席に移ろうとすると、どうして、と彼が微笑むので、私は体のかわりに荷物をそちらに移動させた。
盲点だった。いつも一緒になるのは、民法の講義だったから、まさかなんとなく趣味でとっていた経済学の講義で一緒になっているとは思わなかった。友だちもこの講義を受けている子はいなかったから、ずっと一人で俯いていたから気づかなかったのかもしれない。
彼に会える講義は今日ではなかったし、今日は寝坊もしてしまっていたから、服装も化粧も手抜きだ。こんなかたちで会いたくはなかった。けれど確かに斜め後ろからちらちらと盗み見ることしかできなかった彼が横に座っている(とはいえ、横からの方がさらに盗み見るのが難しい)
「たまに一緒になるよね」
「え!」
「あれ?違った?民法も一緒だよ」
「あ…えっと、多分、そうだね」
「あんなに人数多いと覚えらんないよな」
覚えられないよな。そうですね、と適当に相槌を打つべきだったのだろうが、私は曖昧に笑って彼を見た。ふわふわの柔らかそうな髪の毛。いいなぁ、と思う。私はどちらかというと癖っ毛で固い髪だから、猫っ毛のさわり心地の良さそうな髪がとても羨ましかった。そういえば、彼の(推定)彼女もとても柔らかそうな髪をしている。どちらの髪質を遺伝しても、二人の子どもは私にとってとても羨ましい髪質で生まれてくるのだろう。講義が始まる前のざわめきのなか、彼と言葉を交わしている奇跡を噛みしめながら、死ぬほどどうでもいいことを考えた。
「名前、教えてもらってもいい?俺は菅原って言います。菅原孝支」
知ってます。うっかり口をついてでそうになった言葉をすんでのところで飲み込んだ。それから彼に倣って自分の名前を名乗る。
「俺はね、結構さんのこと見てたよ」
「…は?」
「きれいな髪だなと思って」
にこり、と君の方がきれいすぎて心臓が止まりそうです、って感じに顔を綻ばせる菅原くんに、私は唖然として何も言えなくなる。首をわずかに傾げた菅原くんの手が伸びてきて、ここ寝ぐせになってるよ、などと言いながら私の髪を撫でつけるから、私は今度は口から飛び出そうになった心臓をすんでのところで飲み込む羽目になった。
どうやらとんでもないひとを好きになってしまったようだ、と思う。
彼がいたずらっぽく笑った。
もう手遅れだよ、知ってる。
(2016.05.30)
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