「そちらにフランシス・ボヌフォアはいますか?」
 聞き取りやすい美しい英語だった。わたしがどぎまぎしながら、「いますが、今外出していまして……」とぎこちない英語で答えると、彼女は自分の電話番号と連絡をくれるよう伝えてほしいと言い、わたしがメモを取り終わるのを待って電話を切った。

 フランシスさんは、数日前から両親の経営するゲストハウスに滞在しているお客さんだった。小奇麗な身なりで、荷物もほとんど持っておらず、パリッとノリのきいた白いシャツを着ていて、とてもこんな安宿を利用するようなタイプには見えなかった。肩ぐらいまであるきれいなブロンドは、無造作にまとめ上げただけだろうに、なんだかとても洗練されていた。
「怪しい者じゃないよ」
 訝るような視線を浴びせていると、恐ろしく流ちょうな日本語で彼が言った。おかげでわたしのなかの猜疑心は余計に膨れ上がったのだが、今度はそれを億尾にも出さず、「こちらにご記入ください」と宿帳を差し出した。彼はそれにもきれいなカタカナで”フランシス・ボヌフォア”と書いた。

 フランシスさんは、昼過ぎに起きて、夕方もそもそと外出するのが常だった。現在時刻は夕方5時。彼の習性からすると、今日中にここに戻ってくる可能性は50%といったところか。
 夕ごはんの頃に戻ってくるときは、ゲストハウスの隣に居を構える我が家の玄関ベルを鳴らし、「マダムの手料理の味が忘れられなくて」などと母をたぶらかすので、少女のように頬を赤らめる母の背後で、父とわたしは声を殺して笑っていた。夕ごはんのときにフランシスさんが姿を現さなければ、彼はゲストハウスの門限までに戻ってくることはなく、朝方陽気な足取りでベッドに直行した。
 家に戻り、母に訊くと、どうやらフランシスさんはつい今しがた宿を出ていったらしい。いつも通り身軽な調子だったから、今日戻ってくるかどうかは分からない、と言いつつ、母はきっちり4人分の夕飯の支度を始めているようだった。わたしは先ほどのメモを四つ折りにして、ジーンズの後ろポケットに突っ込んだ。ふたたび家を出て、駐車場の隅にとめた自転車にまたがった。フランシスさんがどこへ行ったかもわからないのに、何故だか追いつける気がしていた。ペダルを漕ぐたび、ところどころさび付いてガタついた前かごが揺れた。少し走ると河川敷が見えてきた。芝生に覆われたなだらかな土手に、金色のしっぽが見えた。ブレーキをかけると、キーッ!と甲高い耳障りな音が響いて、肩をびくつかせてフランシスさんが振り返った。

 夕暮れどき、河川敷から見える景色は、記憶の底からゆっくりと浮かび上がってくるみたいに、しずかに朱色に染め上げられていく。橋の上を電車がガタンガタンと走っていく姿を目で追っていると、過去にゆるやかに戻っていくような、そんな気分になった。背後を子どもが数人、はしゃぎながら駆けていく声が聞こえる。懐かしい歌を歌っている。川沿いを女の子と犬が連れ立って散歩している。
「どうしたの?随分急いでたみたいだね」
 その声で、わたしはゆっくりと今のこの時間に戻ってきた。フランシスさんは、無言で隣に座り込んだわたしの前髪を手櫛で整えて、かすかに満足げな顔をする。
「今日、夕ごはん、どうするのかなって思いまして」
 ジーンズの後ろポケットのなかの伝言は、わたしのお尻の下でぺちゃんこになっていた。元より物言わぬ紙切れである。フランシスさんは「んー……」と少し考え込むような仕草をした後、「せっかくちゃんが迎えに来てくれたし、今日はお邪魔しようかな」と言った。わたしは「今日は、じゃなくて、今日も、ですよね?」と彼を薄目で捉えながら言ったが、フランシスさんはわざとらしく目を逸らして何も言わなかった。
「フランシスさんは普段何してる人なんですか?」
「気になる?」
「まぁ、多少は」
 自転車を押しながら、二人並んで家までの道のりを歩いた。二人乗りしないの?と、フランシスさんは荷台に目を落として小首をかしげたが、わたしは当然のように却下した。「おじさんがかわいこぶらないで下さいよ」と言うと、フランシスさんがあからさまにショックを受けていたのがおかしかった。当たり前のように自分が後ろに座る方だと思っているのが気に食わなかったし、何より彼とこれ以上近づいてしまうのは、どうしても避けたかった。
ちゃんのストーカー」
「……はぁ」
「そういう冷たいところも、お兄さんを魅了するよね」
「そういうことばっかり言ってるんですか」
 受話器越しのきれいな英語がふわりと脳裏によみがえる。軽く頭を振ってもう一度しっかり前を向いた。
「さっき、電話ありましたよ、女の人から」
 そう告げても、フランシスさんは何も言わない。不思議に思って彼の方を見ると、最上級の笑顔がこちらに向けられていた。
「不機嫌だったのはそのせい?」
「別に、不機嫌じゃないです」
「え〜?そうかな〜?」
「その顔むかつくんですけど」
「いや、うれしくて、つい顔が緩んじゃうよね、ごめんね」
 彼の愉快そうな視線に耐えられず、わたしは素早く自転車にまたがった。目いっぱい足に力を入れてペダルを踏む。スピードをつけるぞと勢いづいたところで、ぐらりと車体が揺れて崩れ落ちそうになる。背後からがっしりとしがみ付かれていた。
「ちょっと!」
「やだ〜〜〜お兄さんを置いていかないでえええ」
 フランシスさんの芝居がかった声が耳もとで聞こえる。首すじに触れている彼の髪は、今まで触れた何よりも柔らかいような気がした。
「振り落してやる!」
「いや〜〜〜〜!!」
 わたしが立ち漕ぎの態勢に入っても、フランシスさんはずるずると腰に巻き付いて離れない。「死んじゃうううう」大声で彼は叫んだが、その後はずっとゲラゲラ笑っていた。わたしもなんとなく楽しくなって、抗いようもない波にのまれていくような気がした。全速力で駆け抜ける先は、朱色と紺色のまざった半透明の世界だ。


(2017.01.03)


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