美しいものをそっとしまいこむように、彼女は目の前の景色をただじっと眺めていた。風が吹いて、桜の花びらが幔幕のように私と彼女を包む。そっと手を伸ばすと、ふれて、それを握り返してくれるひとがいることを、ひどく幸福に思った。
 昨日の雨のせいで、幾多の花びらとの別れを経たらしい木々は、すこしさみしそうで、それでいて生命力に満ちあふれていた。桜色が散る先から、みずみずしく甘い緑が芽吹き出している。
 私は葉桜が好きだった。以前にそう言った私のことを、彼女が面白がって笑っていたことを思い出した。

「もうだいぶ散っちゃったね」
「残念ですね」
「でも、一期は葉桜が好きなんでしょ?」
「覚えてらしたんですか」
「何、ひとを健忘症みたいに。覚えてるに決まってるでしょ」

 一期のことなんだから。そう続けて、彼女はいたずらっぽく口の端を歪めてみせた。俺を一瞥してから、すぐに目を落とす。足元の鮮やかな絨毯に、興味の対象が移ったようだ。
 彼女の視線の先を追いかけると、二人の間を隔てる水たまりがあった。絡み合う指が映っている。
 その光景を、いつかのときに見たことがあるような気がした。彼女の指先の白いこと。桜の花びらのようなその爪の可憐さ。そしてその全てにふれた幸福な私の右手。

「また来年、見れるといいね」
「ええ。またお供させていただけますか?」
「うん。というか、一期が嫌って言っても、強制的に連れていくけどね」
「ははは、それは困りますな」

 彼女らしい言葉に、思わず軽口が出た。彼女は私の方へからだごと向き直り、唇をとがらせ、不満げな視線を投げつけてきた。もう一度先ほどと同じように笑みをこぼすと、彼女が手にちからを込めたのが分かった。精いっぱいの抗議らしく、指先が赤く色づいている。

「仕様のないおひとだ」

 私も彼女を正面からとらえると、なんか握手みたい、と彼女がちからの抜けたふにゃりとした顔をしたので、では仲直りの握手ということにしましょう、と冗談めかしに言ってみた。彼女は一度意外そうに目を丸くしたのち、手のちからをゆるめ、それでも離さずに、ふふっと息をもらした。

 私は葉桜が好きなのだ。簡単にさよならを告げてしまう儚く美しい存在よりも、その先にあるはじけるような生命の輝きを、その甘美さを愛しく思う。水たまりを縁取る数多の桜色の向こうに見える、彼女の軽やかな微笑みを。


副題 / 水たまりに映るは明日の二人
フリーワンライ企画さま(@freedom_1write)より

(2016.04.08)


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