
彼はいつだって他人に本心を見せない人だと思っていた。心の底の柔らかい部分。
けれども、彼女にだけはほかの人に向けるそれとは違う笑みを浮かべていて、それはきっとほんのささいな違いだったのだろうけれど、それがどれだけわたしの胸を締め付けたかなんて彼は知らないし、ずっと知らないでいいと思っていた。
「お前も大概不毛な奴だな」
「うるさいよ!」
うっかり及川くんのその笑顔を視界に映してしまったわたしは、いつものように岩泉を校舎裏へ連れ込んで呆れさせていた。
「ここに泣きそうになっているかわいい女の子がいるっていうのに、きみはやさしい言葉のひとつもかけられないだめ男なの」
「どこにいんだよ、そんな女」
「あんたの目の前だ!」
自分の顔を指差しながら、わたしよりも随分と背の高い岩泉と目を合わせた。"迷惑"と達筆な文字が岩泉の顔に書かれているのが見てとれた。これで本人としてはもう少し成長したいと思っているのだから、人間とは貪欲なものだ。わたしは彼の顔の文字よりも、それを見るために曲げられた自分の首の角度に、確かな違和感を感じていた。
岩泉にとってわたしは、"不毛で哀れな"その他大勢の内のひとりに違いなかった。わたしがこっそりと気付かれないように送っていた眼差しを、岩泉が遠慮なく拾い上げたころには、わたしの視線の先の彼には、もうすでに特別な存在がいたから。けれどもわたしは、彼のやさしさに期待して、たびたび彼を置き去りにされた感情のはけ口にしていた。ちょうどこんな風に。
「十分元気じゃねえか」
「カラ元気だよ!」
「…そんだけ叫べりゃ十分だろ」
はぁ。わざとらしく大きなため息をついて、岩泉が赤子をあやすみたいにわたしの背中に手を回し、ぽんぽんと叩き出した。途中で、「セクハラで訴えてやる」と、首を曲げながら睨みつけてみても、岩泉は呆れた顔つきのまま、それでもその動作をやめなかった。その温かくもない単調なリズムが、次第にわたしの涙腺をゆるめていく。蛇口をひねりすぎたみたいに一気に溢れた涙を、彼は乱暴に制服の袖口で拭った。
「目にゴミが入った」
「素直じゃねえ奴」
岩泉といると、どうしてこんなに気が抜けてしまうのか自分でも分からない。顔は仏頂面だし(笑うとかわいいところもあるけど)、言葉もやわらかくもなんともなくて、こんなときにハンカチのひとつも差し出せない男っぷりなのに。だけれども、それがいつもわたしが岩泉を呼び出してしまう理由なのだろう。
「…ありがとう」
乱暴に拭われたあとが乾いたころ、彼の顔をもう一度見た。最初と同じように、首の角度に違和感はあっても、もう岩泉の顔には文字は書かれていなかった。ただ目を見開いて、わざとらしく驚いてみせている。
「
、お前なんか悪いもんでも食ったんじゃねえよな?」
「なんでそういう話になるわけ?!」
彼の調子に合わせて、わたしも作為的なほど怒った感じの物言いをしてみた。岩泉は珍しく無防備に破顔した。喉ぼとけが揺れる。
「冗談だ。どういたしまして」
「もうお礼なんて言ってやんない」
そう言ってわたしが唇を歪ませると、岩泉は「はいはい」と放り投げるように言ってから、またさっきみたいにわたしの顔を自分の袖口で拭った。最後に目尻に残っていたわたしのなけなしの恋着までさらっていくように。
(2016.03.17)
Close