夏は始まったときから終わりが来るのが分かっている。蝉の鳴き声、風鈴の音、緑の光線。
 空に咲く、花。

 その日。本丸はいつも以上に賑やかで、ことさら浮足立っていた。庭には鉄板とたくさんの食材、それから何故か水を張ったビニールプールがあって、そこには色とりどりの水風船が浮かべられていた。
 ―――政府が花火を上げる。先月の会議で聞いた連絡事項の一つだ。日頃の労いを兼ねた催しで、その日ばかりは全本丸に休暇を与えるとのことだった。
 たった一日の短い夏休み。この話を帰って皆に伝えると、まず花火とは?という話になり、どう楽しむのか、何をするのか等、予想はしていたが質問責めにあってしまった。私はゆっくり昔の記憶を辿りながら、一つ一つをできるだけ丁寧に答えた。花火、お祭り、屋台、かき氷。後半は主に食べ物の話になってしまって、薬研くんには「さすが大将だな」などと冗談めかしに言われてしまうし、光忠さんはりんご飴やわた菓子、アメリカンドッグなんかを再現する気まんまんで、メモまで取り出す始末だった。鶴丸さんは金魚すくいを再現すると張り切っていたけれど、五虎退くんに「金魚さんがかわいそうです」とあの潤んだ瞳で見つめられてたじろいでいた。多分、その結果が、この水風船なのだろう。傾きかけた8月の最期の日差しを集め、今にも破裂しそうに膨らんでいくように見える。

「すごいよね、これ」
 こちらに歩み寄ってきた清光が私の隣に腰かけながら言った。半分苦笑しながらだったが、彼もまた浮足立っているように見えた。他の皆はどうしたのだろうと思っていると、顔に出ていたのか「皆は厨房だよ」と、シンプルで存外そっけない言葉が続いた。ふと、彼の視線が背後にある自室へと向けられたのが分かった。小首を傾げたままその顔が返ってきて、今度は私が彼の思っていることを読む番だった。
「浴衣干してるの。せっかくだから着ようかなーと思って」
「そっか」
 またもシンプルでそっけない言葉だった。清光のことだから、「いいね。絶対かわいいと思うよ」なんてほめてくれるんじゃないかと期待していたのに、小さく落胆してしまった自分に気が付いた。分からないように肩を竦めたつもりだったが、やはり彼には分ってしまったようだった。
「いいと思うよ。でも、主、一人で着れるの?」
「えっ……えーと、そこは清光先生に頼もうかなと思ってました」
「……全く、仕方ないなぁ」
 今度も半分苦笑しながら、けれども残り半分は嬉しそうに彼が言った。私はというと、よろしくお願いしますと恭しく頭を下げた。それこそ三つ指をつく勢いだ。清光と私の関係はいつもこんな感じである。

 清光は私が生まれて初めて出会った刀剣男士だった。つまりは初期刀という奴だ。自分で扱いにくいとか、かわいがってくれる人募集とか言い出すし、とんだ曲者が来てしまった……と、正直初めは愕然とした。けれども初対面でさっそく印象を悪くするわけにはいかなかった。なにしろ私の審神者としての力は補欠合格レベルで、せいぜい頑張っても一日に一度程度しか刀剣男士を顕現することができないだろうと言われていた。つまり、初日は少なくとも彼とこの本丸に二人きりだし、私の能力次第では、数日はその状態が続くかもしれなかったのだ。
 それで私は、多分、頬が引きつっていたとは思うが、精いっぱいの笑顔を浮かべて「よろしくお願いします」と頭を下げた。それなのに、彼はすうっと目を細めて私を睨んだ。先ほどまではにこやかな甘い笑みを浮かべていたのに、だ。何か気に障るようなことをしたのだろうかとたじろぐと、ずかずかと思ったよりも堂々と男らしい足取りで歩みよってきて、「襟元崩れてるよ。女の子なんだから気をつけないと」と私の着物の着付けをいとも簡単に直して、今度は甘いというよりは、もう少し別の種類の笑みを浮かべた。つり気味の目もとがわずかに下がったその顔に、私は随分と安心させられたのを覚えている。
 それから、清光はずっと私の隣にいてくれる。綺麗に塗られた爪のマニキュアを褒めさせられたかと思えば、お揃いに私の爪を塗り替えて満足げに胸を張る。遠征のついでと摘んできた花を私の結いあげた髪にさして愛でる。傷ついた体を隠して、冗談めかしに不平を言うことはあっても、私の前では一度も辛そうな素振りを見せることはなかった。
 愛されたい、大事にしてほしい。甘えたい、離れないで。言葉ではそう言う癖に、彼はいつも私ばかりを甘やかすのだ。私ばかりを慈しみ、大切にし、甘やかせ、隣にいてくれる。突然訳の分からないことに巻き込まれたのは、多分私よりも彼の方だったはずなのに。



◆ ◆ ◆



「帯はどんな感じにする?」
「かわいくして」
「はいはい」
 清光は手際よく私に浴衣を着せていく。私は言われた通りに背筋を伸ばして、押さえててと言われた部分を押さえていたり、腕を上げたりするだけの着せ替え人形だ。
「こういうのどこで習うの?」
「さあね?何でかできちゃったんだよねー。主が頼りないからかな」
 くすくすと悪戯っぽく声を弾ませる清光に私は何も言い返せない。おっしゃる通りでございます、という感じでもあったし、本当のところそれが嫌ではないからだ。
「はい、できたよ。どう?」
 言われて、鏡の前でくるくる回って見せる。久々に着た浴衣は新鮮で、自分自身も随分と浮足立っていることに気が付いた。「かわいい?」と聞くと、「かわいいよ。さすが俺」と清光は言った。

 本丸で和装をするのは、初日以来初めてのことだった。初日は政府から形式的なものだからと(多分気分を出すためなんじゃないかと思う)、着物を着させられたのだが、勿論一人で着付けができるわけもなく、それ以来ずっと洋装で通していた。翌日ワンピースを着た私を見つけた清光は、一瞬目を丸くしたがすぐに一つ頷いて、「そのひらひらしたのもかわいいね」と言ってくれた。

 障子の向こうがざわめき始める。気付けば、障子の白はすっかりオレンジに染まっていて、夜の色に近づいていた。
「大将、何やってんだー?」
 庭の方から厚くんの声が聞こえた。
「着替えてるからもうちょっと待ってて」
「おー。早くしねぇと全部食べられちまうぞ」
 厚くんの笑い声に、そうだそうだと幾人かの声が続く。かすかに肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきて、光忠さんの「つまみ食いは駄目だよ」なんて声が続いた。つまみ食いをしようとしたのは誰だろうか。ふっと息が漏れて、障子の方へ歩みよろうとすると、背後の清光から抱きすくめられた。肩口に彼の黒髪のしっとりした感じがあった。驚いて顔を上げると、鏡越しに目が合う。赤い炎のような瞳が不安げに揺らいでいた。
「どうしたの?」
「ほんとに……本当にその恰好で行くの?」
「へ?」
「やだっていったらどうする?」
 浴衣の薄い布越しに伝わる清光の熱。鼓動が早い。けれども私の鼓動も、それに追いつくようにスピードを上げていた。

 扱いづらいけど、かわいがってね。清光は最初にそう言ったけれど、多分それは私の方だった。審神者としての力も弱くて、満足に傷も癒してあげられない。仲間もすぐには増やしてあげられなくて、雑事から戦闘、書類仕事だって、いつも率先してやってくれた。疲れたし休憩しよー、綺麗にしてよ。彼がそう言うとき、わがままだって皆に笑われることもあったけれど、私の手を引いて、一息つかせてくれるためだって、ずっと知っていた。ずっと二人だった。たくさん仲間が増えても、ずっと清光と二人と皆だったのだ。
「そういう格好の主は、俺だけのものだと思ってた。二人の秘密だって思ってた」
 言葉がつるりと零れ落ちた。二人の影が重なって、宵闇よりも深い夜に飲み込まれていく。
 清光。確かめるように呼んだ。身をよじって、彼の方を向く。
「もう一つ、秘密をあげる」
 もう一度大事に名を呼ぶと、かすかに頬を染めた彼が顔を上げた。その頬に口づけを落とす。清光が息を飲んで、それから私の背に回っていた腕が、だらりと落ちた。そのまま彼が崩れるようにしゃがみこんだので、私も慌てて膝をついた。
「ずるい」
「えー……」
 丸められた背を擦る。今さらになって恥ずかしくなってきたのは、私だけの秘密だ。
 障子の向こうからまた声が投げられた。
「主ー?かき氷、何味がいい?」
 波打つように響く笑い声。そのとき、遠くで、ドンッと大きな破裂音が聞こえた。わぁっとたくさん感嘆が重なる。障子の向こうで光がぱらぱらと瞬いた。
 赤。青。黄。緑。
 夜に開く、花。

 障子ごしの花火に目を奪われていると、不意に手を引かれた。
「こっちにしてよ」
 そう言う清光の目もとが柔らかく緩められた。口づけが落とされる刹那、優しい睫毛に縁どられた瞳の色が焼き付いた。目を閉じても蘇る鮮やかな赤。最初に出会って、ずっと一緒にいた。私の隣はずっと、清光がいい。
 当たり前にそこにあるものが、いつだって二人だけの秘密になっていく。




(2016.09.20)

material by HELIUM

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