付き合い始めてからあっという間に3ヶ月が過ぎて、気づくと季節はかすかに赤い陰りを帯びていた。彼氏彼女の関係になったからといって、わたしは唐突に彼女というものに姿を変えることはできず、そしてそれは御手杵くんも同じだった。わたしたちは相変わらず時々連絡を取り合い、お昼を食べたり、講義の空き時間が一緒になったときなどは、おしゃべりをする。しいて言えば、以前よりも連絡の頻度は上がっていたし、時々、彼がためらいがちにあの大きな手でわたしの手を包んでくれることもあった。けれども友達に会うと、それは簡単に解かれてしまって、そういうときは決まって、暑いよなぁとかいうわざとらしい言い訳が続いた。だからといって彼ばかりを責めるつもりは毛頭なくて、だってそういうとき私も、暑いよねぇと薄ら笑いを浮かべてしまうのだ。そして、その言い訳ももうすぐ通用しなくなることを、わたしたちは薄々感じ取りながら、ただ何もできないでいる。


◆ ◆ ◆


「え!あんたたちまだキスもしてないの!?」
 目の前の友人が衝撃的な音量でそんなことを叫んだので、わたしはすぐさまこの場から逃げ出したくなった。上目遣いに睨みつけると、彼女はばつの悪そうに片手で口を押さえ、もう片方の手で"ごめん"のかたちを作った。
 幸い、ランチタイムのピークの時間帯からはずいぶんと外れていたので、学食にはほとんど人はおらず、窓際で試験勉強をしていた男の子がびくりと肩を震わせただけだった。視界の端で彼がカバンから携帯音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンをつけるのが見えた。申し訳ない……。

 そう、わたしたちは未だにキスすらしていない。御手杵くんがわたしの家に来て手料理を振る舞ったことはあったが、時間帯は真昼間だったし、小指の爪の先ほども色っぽい空気にはならなかった。wiiでマリオカートをしていたら、気づけば彼のバイトの時間が来ていた。駅まで送るという言葉も辞されて、玄関先で見送ったとき、御手杵くんが名残惜し気にわたしの指に自分のそれを絡ませたときが、たぶんいまのところわたしたちの最大級のふれあいと呼べる気がする。
「御手杵くんは男なんだよね?」
「どういう意味ですか、先生!」
「ごめんごめん。いやぁ、今どき珍しいよね」
 色々と悩んだ挙句、現在社会人の彼氏持ちである経験豊富な(と思われる)友人にこっそりと相談を持ち掛けたのだけれど、人選ミスだったかもしれない。彼女は目の前でひどく楽しそうな顔をしていて、それはもう小さな子どもがお気に入りのおもちゃを見つけたときみたいな感じだった。
「もういい」
 そう言った声は、思ったより怒りが混じってしまっていた。普段温厚でほとんど怒らない(と思われている)わたしがそんな態度をとったことに、彼女は慌ててもう何度か謝罪を繰り返して、立ち上がろうとするわたしを制した。
「ほんとごめん。なんか初々しいからついからかいたくなっちゃって」
「全然嬉しくないから」
「そう?いや、相手知ってるから思うのかもしれないけど、たぶん大事にされてるんじゃない?」
「それは……そう思う、けど」
「なんだ、結局惚気じゃん!」
 彼女がわははと豪快に笑う。笑いごとじゃないんだけどなぁ。わたしはそう思いつつも、"大事にされてる"という言葉だけで、わずかに心が軽くなっているのを感じた。我ながら単純。でも単純で良かった。
 つられて少し笑ってしまっていると、テーブルの上に置いていた携帯が震えた。画面には御手杵くんの名前が表示されている。彼女もそれに気づいて、にやりとまたさっきのからかいまじりの笑みをしっかり浮かべてから席を立った。その背中に、ありがと、と声を投げると、一度振り向いた彼女は、律儀だねぇと笑って、ひらひらと手を振った。

「もしもし」
『後ろ向いて』
 携帯の通話ボタンを押すと、わたしの応答にほとんどかぶせるみたいに御手杵くんが言った。
「え?」
 振り向いた先、学食の入り口あたりに御手杵くんが立っていた。こちらに歩み寄ってくる彼は、走ってきたのかかすかに額に汗が浮かんでいた。たぶんあの子が呼んだんだなと気が付く。
「どうしたの?」
「いや……えーっと……」
 カバンからハンカチを取り出して差し出す。それから飲みかけだけれど、まだ冷たい水の入ったグラスも差し出した。御手杵くんは苦笑しながら、ありがとうと言って小さく頭を下げた。ハンカチで額の汗を拭い、一度に水を飲み切って、ふうと息をついたものの、その顔は強張っていて、3ヶ月前のあの告白の日を思い出してしまった。でもあのときのわたしは、ここまで余裕がないそわそわした気持ちではなかったような気がする。
「何か悩み事があるって聞きまして……」
 御手杵くんがあの日と同じ妙な敬語を使ってくる。そうだ、このひと、緊張すると敬語になるのだ。そう気が付いたとき、なぜだか不意に御手杵くんがうちにごはんを食べに来た日を思い出した。


◆ ◆ ◆


「今日はありがとな。久しぶりにまともなもん食った」
 御手杵くんが満足げにおなかを擦りながら立ち上がった。ついさっき、彼の携帯がバイトの時間を知らせるアラームを鳴らした。わたしたちはすっかりゲームに熱中してしまって、ふと気が付くと外は宵闇の時間に差し掛かっていた。カーテンを閉めて電気を点けながら、わたしもジーンズのポケットに財布を突っ込む。御手杵くんを駅まで送りがてらコンビニに寄ろう。最近出た新作スイーツが絶品らしいと聞いたのを思い出した。
「駅まで送るよー」
 玄関でスニーカーを履いている御手杵くんに声をかける。けれども彼は、大丈夫と二度繰り返した。それがなんだか強情な感じがして、わたしは彼の丸まった背中を見ながら少し不思議に思った。
「やなの?」
「そういうわけじゃねーよ」
「じゃあ送ってく」
「ダメ」
「何で?」
 思わず唇を尖らせて問い詰めるように尋ねると、御手杵くんが困ったように眉を下げた。少し情けないけれど、わたしは彼のハの字に下がった眉が結構、いやかなり好きかもしれない。
「……駅からの帰り道が心配だからです」
「えー?」
「なんだよ、その顔。夜道に好きな子がひとりで歩いてるのとか心配するに決まってるだろー」
 今度は御手杵くんが唇を尖らせた。真っ赤な顔だ。でもその"真っ赤"は怒ってるのとは違うのは分かっている。わたしもなんだかつられて恥ずかしくなって、訳もなく胸の前で握った手に目を落とした。
「たまに、御手杵くんってすごい恥ずかしい」
「……知ってるよ」
 知ってる。悔しそうな声だった。頬は全然熱が引く気配もなくて、わたしはただ手元を見つめていた。そうしたら御手杵くんがその手をとって、わたしの人差し指をきゅっとその大きな手で包んだ。なぜだか胸までぎゅっとして、わたしの体はさらに熱を持った。
「帰りたくねーなぁ」
 御手杵くんがぼやくみたいに呟いた。それから少しの沈黙が下りて――

「……こっち向いてくれませんかね?」

 目の前の御手杵くんがあのときと同じようにわたしの指を手にとった。今日は、中指を親指の腹でゆっくりとなぞられた。なんだかいたたまれない。いたたまれなくて、わたしは顔を上げられなかったのだ、あの日。彼が同じようにわたしに敬語で尋ねたとき。
 ああ、暑い。熱い。くらくらする。汗ばんで何度も振りほどいた手を思い出す。二人とも照れて、付き合っていることを知っている友達の前でさえ、堂々と手を繋いでいることもできない。だって暑いのだ。熱くて、どうしようもないのだ。
 けれども今日は、顔が熱くても、暑くて汗ばんでいても、恐る恐るでもいいから顔を上げよう。そうしたらきっと御手杵くんは笑ってくれて、わたしたちはもう一歩だけ彼氏彼女のかたちに近づく。
 それに、もうすぐ夏は終わってしまうのだから。









(2016.08.07)

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