御手杵くんとは、近所のレストランでバイトをしていた時に知り合った。彼はそこで厨房係をしていた男の子の友人で、ある時その子が急にバイトに来れなくなった時期に、ちょっとだけ代わりに働いてくれたことがあったのだ。本当のところ、彼は彼の友人である男の子より手際がよくて謙虚だったから、店長も店の何人かも、そのまま彼が正規のバイトとして入ってくれることを期待したのだが、彼の友人が戻ってくると同時に、彼はあっさりと数日分のバイト代だけを受け取って去ってしまった。
 それでわたしと彼の縁もあっさり切れてしまったかといえばそうではなく、彼の最終シフト日にたまたま休憩時間が一緒になり、なんとなく連絡先を交換してしまい、今に至る。実は彼はわたしと同じ大学に通っていて、なおかつ一人暮らししているアパートも徒歩で10分もないくらいの距離だったのだ。それからは、時々連絡を取り合い、お昼を食べたり、講義の空き時間が一緒になったときなどは、おしゃべりしたりする感じになった。

 その日、わたしは休日にしてはすこし早起きをして、洗濯物を干していた。大学4年ともなれば、卒業に必要な単位はほとんどとりきっていて、平日も休日もないようなモラトリアムな日々を送っていたが、その日は前日の天気予報でお洗濯日和と言っていたから、わざわざ目覚ましまでかけて起きたのだった。梅雨の時期の晴れ間は貴重だ。
 干し終えてから一息着いて空を見上げた。真っ青の空にところどころ真っ白な雲がただよっていた。それから道路に目を落とすと、まっすぐ伸びる坂の上から御手杵くんがこちらへ歩いてくるのが見えた。大きな背丈の彼をこのアングルから見るのはとても新鮮だった。後ろ髪が跳ねているのはたぶん寝ぐせだろうか。柔らかそうな茶色い髪の毛が、良く晴れた陽射しを含んで金色に透けて見えた。
 おーいと、手を振ると、彼がきょろきょろと当たりを見回した。わたしを見つけると、にっこり笑ってくれる。彼が羽織っていたグレーのパーカーをごそごそしているのを眺めていると、わたしのポケットの携帯が震え出した。
「おはよう」
 携帯に耳を当てながら彼を見た。受話器ごしのその言葉のあとに、彼がちいさく頭を下げたのが分かった。
「おはよう。何してるの?」
「朝飯買いにコンビニ行くとこ。もう食べた?」
「ううん、まだ」
「じゃあご一緒にどうすか?」
 御手杵くんが小首を傾げた。なんだかいつも見下ろされているひとを見下ろしているのは気分がいい。ふふっと笑って、じゃあプリン奢ってと言うと、彼が顔をしかめてうえ〜と言ったが、わたしは、よろしく、と言って通話を切った。彼が肩をすくめながら手招きするのを見届けてから、上着を羽織って家を出た。

 道路には昨日降った梅雨のじとりとした雨の湿気がまだ残っていたが、風はからりと澄んでいた。春の終わりと初夏の訪れ。景色の色がはっきりしていて、鮮やかなコントラストを成していた。葉っぱの緑、あじさいの赤や青、濡れた道路の濃いグレー、水たまりに映る景色の審らかなこと。じめじめして洗濯物が乾かなくて髪の毛も暴発する季節だが、わたしはこの季節をふしぎと嫌いにはなれなかった。

 朝ごはんはコンビニで買って、近所の公園で食べようという話になった。家には朝ごはん用の材料があったが、それはお昼ご飯に回してしまおうと思った。こんなに天気のいい日は、外でごはんを食べるというのも素敵な感じがする。それから御手杵くんがプリンも奢ってくれるということだし。
「家ではごはんを作らないの?」
 ふたりで並んで歩いているうちに、だんだんと温かくなったのか、御手杵くんがパーカーの袖をまくった。わたしもそれに倣うように、カーディガンの袖をたくし上げた。
「たまに作るけど、バイト忙しいと結局野菜がダメになったりして、経済的じゃないんだよなぁ」
 御手杵くんがたくさんのバイトを掛け持ちしているという話は、知り合ってすこししてから本人が教えてくれた。御手杵くんのおうちは特別お金持ちというわけでも貧乏というわけでもない中流家庭だそうだが、下に弟が4人もいるので、できるだけご両親の経済的負荷を減らそうと、バイトに精を出しているらしい。確かに昼間に会うときの彼は、結構な頻度で眠そうにあくびをしていた。
 わたしの家も特別お金持ちでも貧乏でもない中流家庭ではあったが、姉がひとりいるだけの二人姉妹で、なおかつ姉はもう大学を卒業して働きに出ていたので、ぬくぬくと趣味程度のバイトをしながら両親からの仕送りで暮らしている。そういう自分を彼と比べて恥じることは、なんだか彼に対しても、わたしの両親に対しても失礼な感じがしたから、わたしはただ彼のゆったりとしていて優しく、すこし重いものを背負ったみたいな猫背に、胸がぼんやりと温かくなる感じを覚えていた。

 ふと、正面からふたりの男の子たちが歩いてくるのが見えた。御手杵くんが、あ、とちいさく声を漏らすのが聞こえて、彼の方に顔を向けると、さっきの男の子たちの方からも、あーという声が聞こえてきた。
「おー、御手杵じゃん。何してんの?」
「コンビニ行くとこ。なんか酒臭いな」
 言いながら、御手杵くんが顔をしかめる。へへっという笑い声が続いて、今度はそちらに顔を向けると、ふたりとも一様に眠たそうな目をしていた。たぶん夜通し遊んだ帰りなのだろう。ごく一般的で健全な大学生の図だ。
「ところでこの子は?紹介しろよー」
 御手杵くんの友人たち(仮)が酔いの残った夜のにおいのするあけすけな視線を向けて来る。わたしはそれに何も言わずに、代わりに、困った、という視線を御手杵くんに飛ばしてみたが、彼はわたしを見ずに、わずかにわたしを自分の影のなかに隠すみたいに一歩前に出た。
「俺の好きな子だからお前らには紹介しません」
 御手杵くんはそう言うと、わたしの手をとって歩き出した。そのあとにまたなーと言った彼の声は、敵意も何もなかったから、きっとさっきの男の子たちは御手杵くんの友人に違いなかった。なのに、わたしの手を握る彼の手はずいぶんと熱くて力強かった。

 御手杵くんはずんずん歩いて行ったが、そのスピードはわたしの歩くペースとほとんど変わらなかった。彼の手の温度はぐんぐん上がっていく感じがして、見上げた先の彼の耳が真っ赤に染まっていた。よく晴れた今日だからこそ隠しようもなかった。
 朝ごはんを買うはずのコンビニを通り過ぎても彼の足は止まらず、公園に着いたところでようやく彼の足は止まってくれた。ふたりとも汗ばんだ手をしていた。

 一緒にごはんを食べるときの、御手杵くんのおおきな口ともぐもぐ咀嚼するときのこどもみたいに膨らんだ頬。ときどき特別に大切な女の子を見るときみたいに、わたしに向けて細められるやさしい目。こわいことやかなしいことなんか、なにもないみたいに思わせてくれるおおきな背中。ひとつひとつ思い出して、おそろしく簡単な答えを導き出したけれど、わたしはそれにさもいま気づいたみたいにびっくりして、ぎゅっと彼の手を握り返してしまう。
 おずおずと、彼がわたしの方を振り返って、なんだか情けないかたちをした目で見下ろされてしまった。
「…ちょっと黙るのやめてもらっていいすかね」
 御手杵くんが言った。目のかたちは情けないまま、真っ赤な顔をしていた。わたしはそれにふふっと笑ってしまって、それからにんまりと唇の両端を引き上げて見せた。
「ちゃんと言ってもらってもいいですかね?」
 のぞき込むようにして言う。御手杵くんが、はぁとため息をついた。一度困ったように視線をさまよわせてから、彼がちいさく息を吸ったのが分かった。
「好きなんですけど…プリン奢るんで付き合ってもらえませんかね?」
 御手杵くんが言った。それから目が合って、ふたりして大笑いする。すこしだけまだ冷たい風が、ふたりのあつく湿った手を撫でていった。



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@saniwan60さまより

(2016.07.31)

material by Miss von Smith

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