「何楽しそうに水浴びしてんだ、大将」
万屋に寄った帰り道。突然の夕立に降られ、着物の歩幅ではたかがしれているが、出来る限りのスピードで走って本丸へと急ぐ。しかし、みるみるうちに頭からつま先まで、まるで水浴びでもしたみたいにぐっしょり濡れてしまい、途中で諦めて天然のシャワーだ、と頭を切り替えたときだった。傘を差した薬研くんの声に目を凝らせば、呆れたような顔つきの彼が向こうから歩いてくる。
雨が降り出したのに気づき、迎えに来てくれたらしい。十分近づいたところで履物が跳ねた泥水で汚れているのを見るに、随分と急いで来てくれたようだ。額に張り付いた前髪も、多分この湿った空気のせいだけではないだろう。
「迎えに来てくれたの?ありがとね。でももはや傘差しても意味ないかも」
「まぁそう言わずに、入ってってくれよ」
薬研くんが困ったように眉根を下げて、苦笑しながら傘を差しかける。わたしは少し迷ったが、雨で濡れた前髪を払ってから有り難く彼の傘の下に収まった。
とはいえ、あまり近づくと彼まで濡れてしまうだろうと、遠慮がちに距離をとっていたのだが、そんな気遣いなど察しの良い彼には早々にバレてしまい、そんなに二人で濡れて帰りてーのか、と含んだような笑みを向けられてしまった。それで観念して一歩距離を詰めれば、薬研くんも一歩近づいてきて、結局私は彼の傘の下にすっぽり収まる代わりに、彼の肩を浸食することになってしまった。
本丸に帰り着くと、玄関にバスタオルが用意してあった。たぶんこの用意周到さは薬研くんによるものだろう。本当に頭が下がるなぁ。そう思いながらタオルに手を伸ばしたが、横から伸びてきた手にあっさり奪われてしまい、次の瞬間には目の前が真っ白で覆われる。苦しいよ、とその白を退けると、目の前には薬研くんの顔があって、悪い悪い、とちっとも悪びれない言葉のすぐ後、その瞳が珍しいものでも見つけたみたいに丸められた。
「どうしたの?」
「ん…いや、大将、何か今日雰囲気違わねーか?」
タオルでわしわしと私の髪を拭きながら、薬研くんがもう少し、と顔を近づけて来るので、驚いて思わず身を引いてしまった。しかし彼はそれに気づいただろうに、特に反応は示さず、ややあって何かを思いついたように小さく息を漏らした。
「紅、さしてんのか」
薬研くんの瞳が唇を指していた。
「すごい。良く気づいたねぇ。途中に寄ったお店で勧められて試させてもらったの。あっ、でも買ってはないからね。無駄遣いはしてません」
「何だ買ってねーのか。よく似合ってるぜ」
何でもないみたいにそう言うと、薬研くんは紅がなるべく落ちないように、タオルでぽんぽんと優しく顔を撫でてから、はいおしまい、と濡れてしまったタオルの代わりにもう一枚用意してあったらしい新しいタオルを私の肩にかけた。湯沸かしてるから入ってきな、という言葉が続く。本当に良くできた近侍である。
それから私は、薬研くんにもう一度御礼を言って、お言葉に甘えて冷え切ってしまった体を温めるために風呂場へと向かっていた。いやはや、薬研くんは本当に男前だと、先ほど褒めてもらったことを反芻しながら唇に触れると、かすかに指の腹に赤が移った。
歩きながらそれを眺める。しかしすぐに視界の奥に影が落ちてきた。顔を上げると明石さんが立っている。
「随分濡れはったみたいやなぁ」
そう言う明石さんの眼鏡の向こうの目もとが、まるで眩しいものを見るみたいに細められた。私は、そうなんですよ、とへらりと笑ってみせたが、彼はいつもの表情をどこかに落としてきてしまったみたいに、微動だにせずただそこに立っている。
正直なところ、先日顕現したばかりのこの刀剣男士のことを、私はすこし――いやかなり苦手としていた。
常に億劫そうにしてるとはいえ、結局は何でもそつなくこなすし、何か大きな問題があるわけではなかった。それにどちらかというと気安い方だ。だから普段は軽口もたたき合うし、それなりに良い関係を築けていると思う。
けれども、その夕焼けと日の出が混じったようなけだるげで不思議なひとみは、いくら見つめてみても、本当のところはひとつも悟らせないという冷たい光を帯びていて、それが私にかすかな恐ろしさを抱かせるのだ。
「薬研くんが湯を沸かしててくれたみたいなので、湯あみに行くところなんですよ。体がすっかり冷えちゃったみたいで」
わざとおどけてタオルごと両肩を擦って体をぶるりと震わせる。暗に早く退いてくれと伝えたかったのもあるが、何よりこの妙な沈黙がいたたまれず、何か言葉を発せずにはいられなかった。
いつもの彼であれば、さすが薬研はんは気が利かはるわ、などと他人事な台詞をはいてから身を引いてくれるはずだったのに、彼の冷たい瞳はじっと私を見つめたままで、私のなかの何かを鋭く貫いてしまうのではないかと思えた。
「紅」
「え?」
「今日は紅さしてはるんやなぁと思いまして」
「あっ…あぁ。すごいですね、みんな。さっき薬研くんにも言われて――」
「あんまり似合うてはりまへんわ」
私の言葉を遮るように、明石さんがぴしゃりと言い切った。強い口調。私は思わず肩をびくりと震わすと、一歩後ずさりをしてしまう。上目遣いに彼を覗きみると、彼の瞳が外と同じように濡れて見えた。それがあまりにきれいで、思わず見とれてしまう。
数秒か数十秒、体感ではもっと長く感じたが、不意に明石さんがふわりと笑った。いつもより柔らかく優しい、それから悲しそうな笑みで、私はぎゅっと胸が狭まるのを感じる。
「すんまへん、さっきのは嘘ですわ」
よう似合おうてはります。言いながら、彼の親指が、私の唇に触れた。それはあまりにもそっと静やかだったから、本当に触れたかどうかわからない。
「主はんはほんまに、いっこも自分だけのものにはなってくれへんし…かなわんわ」
独白のような声。明石さんはいつものように笑うと、先ほど私の唇に触れた指先で、そっと自分の唇を撫でてから、ほな、と踵を返した。
私の唇の赤。彼の瞳と少し似ている。
theme / 紐解く唇
@saniwan60さまより
(2016.05.07)
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