淡いすみれ色の風が彼女の髪を梳いていく。さらさらと美しい音が聞こえてきた気がして、思わず息をのんだ。ごくりと鳴ったのどぼとけに、彼女を起こさないように小さく苦笑する。俺は彼女の部屋に一歩足を踏み入れると、白いワンピースから伸びた足に容赦なく照り付ける初夏の陽射しを避けるためだと言い訳をしながら、開け放たれていた障子をそっと閉めた。

 我が主は、取り込んだばかりのふかふかの布団に半身を埋め、すっかり寝入っているようだ。今朝は珍しく早起きをして朝食作りの手伝いをしていたかと思ったらこの有様だ。相変わらずだなと思いながら、上着を脱いで腰から下にかけてやった。正直なところ目に毒だから、というのは置いておくとして。
 二度寝と昼寝が大好きな主は、どこでも眠れることを特技としている。実際本人も得意げに胸を張っているところがあるが、それはともかくとしても、たちの悪いことに彼女は無理やり起こされると最高に不機嫌になるらしい。普段はまあるくて人懐こそうな目もとを思い切り細められて睨まれると、あの長谷部だろうがぐっと後ずさりしてしまうらしい。らしいらしい、というのは、実際俺は見たことがないからだ。幸運にも今まで一度も彼女の眠りを、彼女にとって不本意なかたちで妨げたことがないようである。
 一度見てみたいと冗談めかしに言ってみたことはあったが、彼女は途端に赤面してそのちいさな白い手で頬を覆った。それからその話をしたのは誰ですか?と地の底から出てきたんじゃないかと思うほど恐ろしく冷たい声で尋ねてきたので、俺は喜んで長谷部の名を売った。その後の長谷部の生死は知らんが、しかしその前のいかにも年頃の娘らしい反応には、心を動かされるものがあった。元から俺がこの娘を憎からず思っているということは別として。

 主、とちいさく呟いてみた。反応はない。
 主、光忠の菓子だぞ、と焼きたてらしいクッキーを彼女の鼻先に近づけてみる。少し、彼女が身じろぎした。「んー」と鼻にかかった声を漏らす。ああ、勘弁してくれ、と思いながら、もう一歩クッキーを近づけてみた。ひくひくと鼻が動いて、それに笑いをかみ殺していると、ぱちりと彼女の目が開いた。眩しそうに二、三度まばたきをしてから、慌てたようにがばっと起き上がる。それから寝起きとは思えない速さで髪を撫でつけて整えたようだった。頬がかすかに色づいて、しどけない様子にこれはいかんと目をそらす。らしくない。そのせいか、妙な沈黙が下りた。

「起こしてくれれば良かったじゃないですか!いつからいらしたんですか?!」

 怒っている、というよりは焦っているという声音だ。彼女の鼻先に差し出していたクッキーを皿に戻しながら、彼女にもう一度向き直る。まるで顔を隠すように枕を抱きかかえながら、少し睨むようにこちらを見ていた。なんだか恐ろしくかわいいんだが、皆が言っていたのは多分これじゃあないんだろうな。俺は彼女の表情に安堵するとともに、多分特別扱いされているのだと、また少し自惚れを深くしてしまった。それから、それをいっそ確かめてみようか、と思った。

「ついさっきだよ。あんまり気持ちよさそうに眠っているから、起こしづらくてな。おかげで面白い寝言も聞けた」
「え!うそ!」
「どうだろうなあ」

 彼女が枕から顔を出す。不安げに曇ったひとみにほんの少しの罪悪感を感じたが、好奇心の方が先に立った。俺はにやりと唇の端を歪めながら、彼女をまっすぐ見つめた。クッキー食べるか?などと全く関係のない言葉を口にしてみるが、彼女は息が止まってしまっているみたいに微動だにしなかった。しかし恐らく存外聡明なこの娘は、もうすぐ俺に何を言ったか聞き出した上で、口止めを頼むに違いない。
 手にしたクッキーをひとつ、口に放り込む。

「私、何て言ってたんですか…?」

 恐る恐ると言った風情だ。俺は先程口に入れたクッキーをゆっくり咀嚼してから、もったいつけるように笑って見せた。

「俺のことが好きだ、と。いやはや、なんとも熱烈な告白だったぜ」
「は?!えええ!!」

 彼女の手から枕が滑り落ちた。ころりと転がって、彼女の足元で止まる。ぱくぱくと池のさかなのように口を開けたり閉じたりしながら、みるみる内に彼女の頬――だけでなく、耳から首筋から真っ赤に色づいていく。それからぱちぱちと数度まばたきをしてから、「寝言って、全然意味、ない、ですもん、ね」とほとんど片言みたいに震える声で呟いた。いやはや、まったくもって我が主は面白い。少しいじめすぎたかとは思ったが、俺にとっては満点の反応を得られたのだから、そろそろ御礼もせねば、と口を開いた。

「それは残念だな。俺はきみのことを誰より慕っているのだが」
「いやいやいやいや」

 ないない、と全力で否定する彼女は、まるきり俺の目を見ようとしないので、盛大に破顔してしまった。鶴丸さんの口を縫い付けたい…という物騒な言葉がなければ、先ほどの寝言の話は真っ赤な嘘だと伝えるつもりだったが、とりあえず今はすっかりへそを曲げてしまった我が愛しい主に、クッキーに合う飲み物でも注いできてやろうか。



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@saniwan60さまより

(2016.05.04)

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