ざくり。ざくり。

 先生の教えにしたがって、規則的なリズムをきざむ。寸分たがわぬ小気味のよい音がひびいて宙に舞う。今日はスープをまかされた。あさりと白菜のミルクスープ。保存庫のなかでしなびていた白菜をみつけて、メニューを進言したところ、先生は、成長したね、と口もとをゆるめた。目もとからくすぐったい視線を感じて、わたしも得意げに笑った。

 すこし前から光忠さんに料理を教わっている。わたしの命に応じて戦場におもむく彼らに、何かお返しをしたかった。けれどもわたしの料理のうでは、まずくもないがとりたてておいしいというわけでもなく、"お返し"と呼ぶにふさわしいわざを身につける必要があったのである。

「料理?」
「そう。ここではたぶん光忠さんが一番上手でしょ?」
「君は僕らの主なんだから、そんなに気を遣わなくてもいいんだよ」

 最初はやんわりと拒絶の意をしめされた。単なる小娘であるわたしを彼らは"主"として扱ってくれるが、わたしはそれにどこかきまりの悪い思いを抱いていた。わたしは彼らを深いねむりから引っ張りだして、むりやりにからだをあたえただけだ。目をさましたとき彼らが何を思っていたのかわからない。こわくて聞けるはずもなかった。

「ひとつ、条件を出してもいいかな?」
「うん、なに?」
「料理の授業中は、僕のこと先生って呼んでくれる?」
「え?」
「だめかな」
「ううん、構わないけど。なんか意外で」
「主に物を教えるなんて、恐れ多いからね」
「じゃあわたしのことも名前でよんで」
「君がいいのなら」
「もちろん。生徒を"主"なんて呼ぶ先生いないでしょ?」

 そうしてはじまった彼の授業はかたちをととのえたのがよかったのか、存外スムーズに進んでいった。光忠さんの教え方はとてもわかりやすく(彼はわたしの飲み込みがはやいのだと言ってくれるが)、わたしの料理のうではめきめき上達していっている。これはうぬぼれではなく、副菜程度であれば、もう光忠さんがつくったのかわたしがつくったのかわからないレベルらしい。この発言が長谷部くんのものならば、まったくもって信じられなかったが、あの正国さんが言ったというのだから、信ぴょう性は十分である。

「先生、終了証っていつ頃もらえそう?」
「そうだなあ。ひとりでさかなを一から捌けるようになったら、かな」
「う……それは言わない約束じゃない」

 わたしはさかなを捌くのが苦手だ。あの目がこわい。どろりと溶け出しそうににごった目をまともにみてしまうと、どうにも手がふるえてしまう。鮮度の問題かなあ、なんて光忠さんは意に介さない感じで言ったけれど、ほんとうは死んだいきものの目が一様に苦手なのだ。これは絶対に言えないけれど。
 とはいえ、さかなの件だけでも情けなさすぎるので、だれにも言うつもりはなかったのだが、光忠さんにはあっさりバレてしまった。彼に先生をおねがいしたときから、想定しておくべきことだったのに、ここに来てからずっと張りつめていたわたしは、なぜだか彼のまえではすっかり油断してしまうらしかった。

「絶対!誰にも言わないでよ?」
「僕のこと信用してくれないの?」
「そういうことじゃなくて」
「二人だけのひみつだからね」

 光忠さんの声が妙に艶っぽくひびいた。菜箸を持ったまま、器用にひとさし指でひみつのかたちをつくる。いたずらっぽい笑みをこぼす口もとが上手に弧を描くものだから、わたしの視線は吸い寄せられるように彼に近づいた。
 途端、ゆびさきにかっと熱が走った。思わず手をひくと、がしゃんと大きな音がして、にぎっていた包丁がまないたの上を泳ぐようにわなないていた。見ると、玉のような赤い血がゆびさきからもれだしている。傷口は赤いかたまりにさえぎられて見えなかった。






「すこし痛むと思うけど、我慢してね」

 消毒液のつーんとしたにおいが鼻の奥を刺す。光忠さんはわたしの手首をやさしくつかみながら、そっとガーゼを押し当てた。じくじくと痛みだしていた傷口に、においと同じくらい鋭い痛みが訪れた。思わず手をひいたが、彼の手のなかにあるわたしの手首はびくともしなかった。力を入れている風でもないのに、たしかに彼の手のうちなのだ。
 眉をしかめてたえていると、彼は申し訳なさそうに目をふせた。

 ゆびさきの血をなめとると、思いのほか深い傷がすがたをあらわした。光忠さんは菜箸を放り出してわたしに駆け寄ってきた。そのときの彼の目は、わたしのことを生徒でも主でもない何かとしてとらえているように見えた。
 あふれる血に焦りながらも、指をくわえたまま、大丈夫大丈夫、と冗談っぽく笑ってみせたのに、彼はそれをまるで無視して、わたしの手首を掴んだまま自室へ向かった。にこりともしない有無を言わせぬ態度でわたしを座らせると、棚にあった箱からいくつか手当のための道具を取り出した。
 自分でできるよ、と一度は制してみたものの、彼のこわばった口もとは、わたしにそれを許さなかった。手を出して、とだけ固い声で告げられれば、わたしは何かの犯罪をおかしたみたいな気持ちで自首するように傷口を彼に差し出したのだ。

「大丈夫かい?」
「うん。……ごめんね」

 光忠さんの口もとが、やっとゆるめられた。ふふっとやわらかく包み込むように息を漏らしてから、軟膏を指先ですくった。すこしだけ白くにごった透明のクリームが、彼の指先を艶めかせた。

「あとはもう自分で、できるよ」
「だめだよ」

 手首を押さえていた手が、わたしの熱をもった指の付け根にそえられた。今度も力はまったく込められていないように思えたが、逃げられる気配もしない。観念するしかないのだろう。彼と目を合わせると、彼はさっきとおなじようにふわりとした笑いをこぼした。
 やさしくやさしく、彼の指先がわたしの傷口をふさぐようにふれていく。ふれた先からうつってくるクリームは、わたしの指先にも彼の艶と熱を伝えていった。随分と前から、わたしの鼓動はいつもとは違うリズムをきざんでいた。

「はい、おしまい」

 最後にガーゼをテープで巻いてから、彼はわたしの傷を解放した。正座したふとももに戻ってしまった手が、すこしだけさみしい。

「ほんとうに、ごめんなさい」
「終了証はまだまだ先みたいだね」

 光忠さんが目を細めてわたしを見る。わたしは申し訳なさと、それからざわつく胸のうちを隠しながら、もう一度ちいさくあたまを下げた。

「生徒の面倒を見るのは先生の仕事だからね」
「……ごめんなさい」
「それに、僕がちゃんに触れたかっただけだよ」

 それだけ言い逃げて、光忠さんが立ち上がった。さあ行こうか、と促されたが、わたしは固まって動くことができない。さっきの彼の言葉ばかりがぐるぐるとあたまのなかを駆け巡った。
 目の前におおきな手が差し出され、顔を上げると、光忠さんのいつもの微笑みがあった。それがなによりも強くわたしの胸を痛くするのだ。



(2016.03.28)

material by PETIT

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