彼と初めて会ったときにはすでに、私は彼の名前を知っていた。沖田さん。そのうしろ姿にろうそくを吹き消すときみたいにそっと声をかけると彼はこちらに振り返った。その顔には驚きはなくて、そのことに私の方がびっくりさせられる。どこかで会いましたかねェ?ゆったりとした口調が雑踏のなかをゆるゆるとすり抜け私の耳まで届く。それが鼓膜を揺らした瞬間にはもう、私は全てを、奪われてしまったと思った。


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昨晩から振り出した雨は、翌日の昼になってもやむことはなかった。ざーざーと不明瞭な音を響かせながら、群青色の空から落っこちてくる。私がもしこの雨粒のひとつにでもなれたのなら、あの人の頬を撫ぜたい、と思う。熟した桃のように艶やかで甘い匂いを立てる、あの頬。

屯所のなかは静まり返っていた。隊士たちは今朝方起こったテロのために出払っており、同僚の女中たちは私に留守番を任せたきり半刻前から帰ってこない。そういえばあの子は恋人の元へ行くと言っていた。年上ばかりの女中たちのなかで唯一の同い年のあの子。お互いなんとはなしに仲良くなってはいたが、彼女の恋人についてはほとんど知らなかった。あまりそういう話をする子ではなかったし、私も聞くことはしなかった。確か小さなお寿司屋の板前だとか。ひそひそと下賎な笑みを浮かべながら言った九つ上の女中の言葉がふらりと脳裏に蘇った。

「確か小さなお寿司屋の板前だとか」

もうあまり張りのない声だ。彼女は年の割にずいぶんと老けている。ああはなりたくないものだ。私は扉をひとつ挟んだ向こうから感じられる数人の気配に息をひそめて後ずさった。ほんの一歩だけ。

「あら、そうなの。あの子もずいぶんと理想の低いこと」

この声は・・・誰だろうかと思案している間に、さっきの女中が息をもらすようにして笑った。

「そのへんで手を打っておくほうが妥当なのよ、あの子には」
「まあ・・・。でもそうね。あの器量じゃあとてもじゃないけどここの人たちは捕まえられないもの」
「あらあらずいぶん酷いこと言うのねえ。でもお似合いだわ」
「本当に」

直後に響いた蔑むような高らかな笑い声に背筋がついと粟立った。私は気付かれぬようほとんど足を上げることなく後退していく。ちりちりと熱が足の裏を噛む。彼女たちに反論する気などさらさらなかった。ただ。ただ、ここの人、彼女が言ったその言葉だけが気になった。彼女たちは、ここの人、を捕まえる気なんだろうか。気付けば唇の端が片方、歪んでいた。


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縁側に腰を下ろす。裸足の足を放り投げると指先が小石に当たる。ころころ、ころころ。転がる灰色の小石はあっというまに艶やかな黒に姿を変える。ころころ。それでも転がりつづけ、やがて庭先にできた水溜りに飲み込まれた。深いのか浅いのか。ここからでは分からない。素足のまま土の上に立ち上がるとじんわりと冷えた水が足の裏から浸食してくるようだった。飲み込まれる、と感じた。

「新しい遊びか何かですかィ?」

沖田さん。その声が私を掬い上げた。

「おかえりなさい、沖田さん。みなさんは・・・?」
「まだ帰ってきやせんぜ」
「・・・また職務放棄、ですか?」
「そりゃあ人聞きがわるすぎやしやせんか。サボリとでも言ってくだせェ」

呆れた人。ふいとため息を一つ。そうしてやっと沖田さんが真っ赤な雨に降られてきたことに気が付いた。隊服がところどころ薄い茶に変色している。雨のせいでそれはきっと彼の肌まで濡らしている。慌ててなかへ駆け上がる。さっき自分で磨いた廊下に自分の足で泥をつけてしまった。妙な快感が身に宿る。

部屋からタオルを持って再び出ると、沖田さんはぐっしょりと濡れたまま縁側のそば近くの部屋の畳の上にしっとりと佇んでいた。ぽたぽたといくつも少し日にやけた薄緑の上に濃い染みを作る。一瞬、むせ返るような草の匂い。それから口のなかに血の味が広がった。

「畳、汚しちまいやしたねェ・・・」
「ずいぶんと歯切れの悪い言い方をなさるんですね。わざとじゃないんですか?」
さん、そう俺をいじめないでくれやせんか」
「そんなつもりありませんよ」

そう言って目を合わせずにタオルを差し出すけれど、沖田さんはそれを受け取ろうとはしなかった。私の視線は畳がふやけていくさまをこくこくととらえていたので、仕方なしに勝手に拭かせてもらうことにした。広げたタオルを頭からかぶせてわしわしと乱暴に動かしてやると、布の向こうから含むような笑いが聞こえた。

「何で笑ってるんですか?」
「さァ?」
「・・・まあ、別に良いんですけど」

腑に落ちなかったが、追求するのもばかばかしく思えた。ほかならぬ沖田さんには。

「怪我は」
「するとでも思ってるんですかィ?」
「いえ・・・一応ですよ」

社交辞令的なものです。言うと、沖田さんは、それはそれで傷つきやす、と明るい声音で言った。

白いタオルはいつのまにかぼんやりとした赤へと姿を変えていた。私は沖田さんの腕を拭きながら、しまった、と思った。彼は何も言わない代わりに、何もせずにただ突っ立っているだけだ。

「服、脱がなくて気持ち悪くないですか?」
「・・・さんもずいぶんと大胆なことを言うんですねェ」
「何か言いました?」

隊服の白いシャツのボタンに手をかけながら睨みつける。

「冗談でさァ」

低いトーンだった。鼓動がはやくなった。ゆっくり、ゆっくりとボタンを外していく。シャツとは違う、生々しい白が少しずつ露になる。きっと自分ではやらないだろうと自ら進んで始めた行為なのに、ひどくいかがわしいことをしているような気になった。というより、今誰かが帰ってきたとしたら、それはまぎれもない事実と認識されてしまう。真実なんて結局本人同士の間にしか存在しないのだ。

じゃんけんに負けた私に申し訳なさそうな顔をしながら、それでも幸せそうな顔をして屯所の門前で手を振ったあの子の顔を思い出す。これから彼女が会いにいくのは、町の小さなお寿司屋の板前で、彼女の愛する人だ。雨のなか暗い空の下でも、彼女のうしろ姿は明るかった。

「沖田さん」

ボタンをすべて外してしまうと、ぱさりとシャツが床に落ちた。

「私があなたのこと好きだって言ったら・・・どうしますか?」

つるり。唇から滑り落ちる。

「思い切り笑い飛ばしやす」

沖田さんが言う。細い腕が私の背中に回り、そのまま引き寄せられた。心臓と心臓がくっついて、だけれどそれらは違うリズムを刻んでいた。微かな血の匂いと、くらくらするほど甘い香がする。

「だから、どうか・・・」

どうか言葉にはしないでくだせェ。沖田さんの瞳がそう呟くのが見えた。


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彼と初めて会ったときにはすでに、私は彼の名前を知っていた。そのときにはもう、私は全て彼に、奪われてしまった、のだった。もしも彼が私の気持ちごと自分の気持ちも笑い飛ばさなければならないのだとしたら、私はこの先ずっとそれを口にすることはないだろう。

幸せそうなあの子の笑顔が私を苦しめる。でももう私は彼に奪われてしまった。彼を、彼の甘い香を知らない頃にはもう戻れない。たとえばそれは時を遡れたとしても、



(2016.07.19 remake)

material by 誤爆

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