俺がさんと同い年で同じクラスでその上隣同士の席であったとしても、それは俺と彼女が付き合うという保証にも彼女が跡部さんと付き合わないという保証にもならない。多分そんなことを考えること自体が最高にくだらなくてどうしようもない。それは俺が一番分かっている。




部活の第一メニューはテニスコートで華麗に舞ったりすることではない。地味に学校の周りをひたすら走るのだ。ちなみに跡部さんが部長のときより今は1周多い。これは俺の妙な意地にほかならないから、それに付き合わされている部員たちはたまったもんじゃないと思っているのかもしれない。

「日吉!」

ラスト1周を全力疾走してから、クールダウンがてら一人、まだ走っている部員たちを横目に歩いていた。額の汗を拭うついでに腕を伸ばしてストレッチをしていた時、後ろに伸ばした腕の先から聞こえてきた声はそれはもう聞き覚えのあるもので、俺は振り向きたいような振り向きたくないような何とも言えない気持ちになった。なのに、体はこれっぽちの躊躇いもなく動く。
振り向くと予想に違わずそこには彼女が立っていて、一方予想外なことにその隣は空白で、その透明ガラスの向こうの道路を明らかに制限速度をオーバーした車が何台か通り過ぎて行くのが見えた。
何も言わずに申し訳程度に頭を下げる。さんの横を通っていく1年の集団は当然彼女を知らなかったが、俺のその様子を見たのか、息を切らせた声で「ちわっす」と短く声をそろえて言った。彼女はびくりと驚いたように肩を浮かせたが、すぐに笑顔になって、「がんばれよー」と通り過ぎて行く集団へ手を振った。この人は本当にいつも屈託ない。

「ダウン中?」
「まあ」

じゃあ歩きながら話そうと、彼女はぽんと俺の背中を押してそのまま歩き始めた。

「何でこんなとこにいるんですか?」
「何?いちゃいけないんですか?」
「別にそういう意味じゃないです」

すねたような横顔。形の良い唇を不服さたっぷりに突き出している。グロスが塗られているのか、光に照らされてつやつやと揺らめくそれから目が離せない。煩悩が溢れそうになる脳内をかき混ぜるように頭を振った。

「日吉が見えたから」
「は?」
「車に乗ってたら、日吉らしき人が走ってるのが見えてね。らしき人っていうか日吉だったんだけど。ほら、私が日吉を見間違えるはずないじゃない?」
「はあ・・・」
「そのふぬけた返事はなによー!私が一番日吉の面倒みてあげたと思うんだけど?」
「はいはい」

自慢気に胸を張りながら、彼女が顔だけこちらを向けた。身長差があるのに偉そうに見下ろしたいらしく、首を逸らせて顎を上げながら俺を見据えている。なんだか間抜けだ。でも変わらないでくれているのが嬉しかった。不愛想な俺に対しても、自分のペースを崩すことなく何の思惑もないようにずかずか踏み入ってきたさん。最初はパーソナルスペースを侵されることに不快感があったのに、彼女の臆面もない態度がなんだかだんだんと心地よく感じられた。くだらない意地やプライドを脱ぎ捨てさせてしまう魔力めいたものがあった。けれど、丸裸の心の一番柔らかいところを鷲掴みにされたのは俺だけではなかった。そして彼女の真ん中にあったのは俺ではなくて。

「でさ、跡部も一緒にいたんだけど、ちょっと降りようって言っても面倒だってしか言わなくてさー」
「・・・そうですか」
「跡部ってたまにっていうかいつも訳わかんないし、ほんとわがまま」

そう言って、さんはわざとらしくがっくりと肩を落として見せた。けれどその顔は彼女自身が想定しているようなものではなかった。甘ったるい幸せそうな目。二人が上手くいっているなど聞かなくても分かる。それにもし分からなかったとしても、俺は少しの間でも彼女の口から彼の話を聞きたくない。そう思った。
あの人はものすごく認めたくないが確かにすごい人で、多分俺が彼女のことをどう思っているかくらい分かってしまっているのだろう。そもそも自慢じゃないが色恋に疎い俺が、彼女の気持ちに気づけたくらいなのだから、その「多分」はほとんど「絶対」に近い。
車のなかでイライラしながら待っているだろうあの人に、何故だか俺はその倍以上イライラしているような気になった。

「話聞いてる?」

苛立ったまま生返事をしていたことに気づかれたようだ。さんのむっとしたような声。でも俺はそれにすらまともに返事ができなかった。体の内側から込み上げてくるものがあって、悲鳴にならない悲鳴のような声が競りあがってくる。通り過ぎる車の排気ガスが周りの空気を汚染していくように、その悲鳴に似た何かも同じように俺の内側を汚しながら這いずり回った。

例えばの話。今ここで彼女を抱きしめてキスでもしてやれば、彼は車から飛び出してきて俺に殴りかかるだろうか。取っ組み合いの喧嘩にでもなれば、どさくさに紛れて彼を車道に突き飛ばすこともできる。それからどこかの誰かの明らかに制限速度をオーバーした車が彼をひき殺す。
かもしれない。

でもそれは彼女が俺を好きになるという保証にも、彼女があの人を忘れられるという保証にもならない。もしそうなったとしても、俺はそんなさんを好きにはなれないし、なれるはずがない。もしそうなったら俺もさっさと死んでしまおう。
どうしようもない妄想が駆け巡る。体のどこかしこがじくじくと痛んだ。

足を止めた俺に、さんが不思議そうな顔をしながら立ち止まる。固まったように黙る俺を見上げる気配。
その時、車のクラクションの音が聞こえて、さんが思い出したかのように息を漏らした。その音は思っていたよりも随分と遠くの方からのものだと分かって、瞬間、俺は全てが馬鹿馬鹿しいような気になった。ああ、そうか。





過去作を加筆修正。日吉くんを悔しがらせたい(2016.02.11)



はこ

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