「そっか、だからわたしは清純と一緒にいるんだ」

読んでいた文庫本をぱたりと閉じて、彼女が妙に芝居がかった声でそう言った。彼女の上気した肌も、頭に巻いたタオルから少しだけ零れているつやつやの髪も、その白く柔らかそうな肢体も、僕を駆り立てるには十分なはずなのに、その一言だけで、途端に僕はやる気を失ってしまった。つまり、ヤル気を、だ。

正面にいる彼女の方へと伸ばしていた自分の腕を引っ込めて、さっきと同じように膝を抱え込んだ。両腕と膝小僧はすでに真っ赤で、ミルク色のお湯に包まれてよく見えないそれ以外の部分も、同じような色をしているのが容易に想像できた。そろそろ一時休憩の時間だ。でも、僕の顔を見つめる彼女の目が何かを言いたそうで、どうにも動くに動けなかった。湯船に浸かりながら彼女が僕のことをこんなにも真っ直ぐ見るのは、随分と久しぶりのことだ。

は死ぬほど風呂が好きだ。大抵のカップルが体を清潔にするためか、そのまま事に及ぶようなラブホテルの風呂でも、持参した文庫本を一人読みふけり、平気で僕をほったらかしにする程度に。一方僕はといえば、血の気が多いのか、あまり長くお風呂に浸かると、のぼせてしまって使い物にならなくなってしまう。何が、とかいうことはここでは一応伏せておく。

だから、彼女のこの生態に付き合って、一度ひどくのぼせてしまった後は、仕様がないので先に上がってゲームやら映画を見て、彼女がお風呂から上がってくるのを待っていた。でもそうするとやっぱり寂しくて、最近はこうして一緒にいる。ただぼーっと一緒にいることはできないから、10分に1回は湯船から出て、ぜーはー言いながら脱衣所に予め用意しておいたミネラルウォーターを飲んで、2、3分程の休憩タイムを挟むという涙ぐましい努力付きだ。

欲を言えば、彼女の柔らかい身体を抱きかかえながら、たまにちょっかいをかけたりしたいところだが、僕の動きのあまりの忙しなさに彼女が不機嫌になってしまうので、泣く泣く断念して、いつも彼女の正面に大人しく座っている。ただ、そんな僕を彼女が哀れに思ったのかどうかは分からないけど、彼女も持参する単行本を短編集に変えてくれて、ちょうど2つの短編を読み終わると、本を閉じて僕を見てくれるようになった。
僕らはそうやって、万事うまくいっている、はずだ。

「お嬢さん、ちょっと今の発言は何かな?」
「今の?・・・というか清純顔真っ赤だよ。そろそろ一時休憩タイムなんじゃない?」
「うん、今にも倒れそうなんだよね、の魅力に」

僕がそう言うと、彼女は先ほどまでの少し憂いを帯びた色っぽい顔つきから一転、大口を開けてゲラゲラ笑いだした。君、女の子なんだからもっと色気のある感じで笑ってもらえませんか。僕はそう思ったが、その無邪気な感じと彼女の裸体とのコントラストが意外に悪くなく思えて、さっき引っ込めた腕をもう一度彼女の方へ伸ばした。しかし、その指先は、目的地である彼女の頬にたどり着く前に、彼女自身によってぺちんと叩き落されてしまった。はいはい出ますよー、なんて冷静すぎる台詞を吐いて、が立ち上がる。

冷たいなあ、と僕はいつもの「捨てられた子犬のような瞳」で彼女を見上げてみたが、彼女はその意図には気づかなかったようで、あんまりじろじろ見ないでよ、と恥ずかしそうにそそくさと浴室から出て行った。ラブホテル特有のほとんどスケスケの曇りガラスの向こうに、慌てながらバスタオルを体に巻き付ける彼女の姿が見て取れて、なんだよこいつめかわいいなあ、と思った。

もう付き合って2年近く経つし、今日みたいにホテルにだって何回も行ったし、それこそ数えきれない程セックスしてきたのに、いまだに彼女はこうやって些細なことに恥じらうのだ。なんだよほんとうにかわいいなあ、もう。僕は頬が緩むのを感じながら、もう少しこの愛しい感情の余韻に浸りたい気持ちになったが、ゆでだこ寸前の状況を思い出してやめた。ざばりと浴槽から勢いをつけて立ち上がると、高熱が出たときみたいに頭の中が霞んで、一瞬視界が歪んだ。おおう、と変な唸り声が出て、曇りガラスの向こうで、が小さく笑ったのが分かった。


「大丈夫?」

はいかにも心配した風にそう言ったが、その顔は笑いを堪えている顔だって、のぼせ切った頭でもよく分かった。むにっと彼女の頬っぺたをつねる。ごめんごめんと彼女が笑った。

風呂から出た僕は、完全にのぼせていて、彼女はしょうがないなあと呆れた感じで言いながらも、僕の体を甲斐甲斐しくタオルで拭いてくれて、ラブホテルのなんとも言い難い不格好なデザインのパジャマを着せてくれた。本当はそこまでしてもらう程のことでもなかったのだが、僕のお世話をするの顔が思いのほか満足げだったからそのままにしていた。

彼女がよく冷えたペットボトルを2本、冷蔵庫から取り出した。お茶の方のペットボトルのキャップを開けて、ぐびぐび飲みながら、コーラの方を僕の額に当てる。僕はそのままそれを受け取って、自分の頬っぺたに移動させた。気持ちいい。瞼を閉じて、その心地よさに浸っていると、テレビのスイッチの入る音がした。目を開けて、体をテレビの方へ向ける。ぐわーだとかぎえーだとか、言葉とは言えないような声を出す人間に似た物体が、画面ところ狭しと徘徊しているシーンが映し出されていた。ゾンビものの洋画のようだ。ちらりと横目でを見ると、お茶を飲んでいる最中で、ペットボトルを勢いよく傾け過ぎたのか、口のなかから溢れた液体がくちびるの端から零れ落ちていった。妙にえろい。

「ねーねー、さっきのって何だったの?」
「・・・さっきのって?」

はあからさまに触れてほしくなさそうにとぼけて言った。僕は逃がすまいと、ぐるりと体ごとを回転して、彼女の方へと向き直った。腕を伸ばして、彼女の体にがっしり抱き付く。さながら抱っこちゃん人形だ。背後のテレビからは、女の人の甲高い悲鳴が聞こえて、上目遣いに見上げたの顔は苦々しげに少し歪んで見えた。

「あー、だから私は清純といるんだー、とかなんとか」

下手くそな声まねをしながら言うと、気持ち悪いな、と頭を小突かれた。ちょっと奥さんDVじゃないですか、コレ。なんていつもの軽口をたたこうとしたがやめた。たまには真面目な話もしておかなくては。

「で?」
「でって?」
「何、ちゃん、あんなでかい声で独り言言ってたの?」
「うん、そうそう、だから気にするでないぞよ」

苦しゅうないぞよ。がふざけた調子でそう言った。いつもは乗ってあげるところだが、今日はどうしてもそんな気分になれず、上目遣いに彼女をじっと見つめたまま黙っていた。彼女は僕の視線に気づいているに違いないのに、努めてこちらを見ないようにしているようだった。その視線は、悲壮感漂うBGMが流れ出したテレビに向かっていたが、見上げた彼女の睫毛が切なげに震えていて、僕はもうひとつ力を込めて彼女を抱きしめた。

不意に観念したのか、が僕の方へ目線を落とす。まだ少し湿っている彼女の長い髪が額に触れて、そこから彼女の憂鬱が伝染してくる気がした。僕は近くに放り投げられていたテレビのリモコンに手を伸ばし、スイッチを切る。ブツンと電源の切れる音がした。

「さっきまで読んでた本に書いてあったの」
「何が?」
「人は寂しいから人を好きになるんじゃないかって。だから抱きしめてくれる腕がほしくてあなたといるのって」

>が言った、あなた、は多分本の中の登場人物なんだろうが、実際僕に言われたみたいな気がして、ずしっと重いストレートパンチを食らったみたいに感じた。良いパンチ持ってるじゃねえか、お前さん。

「怒った?」
「べっつにー」

そう言って、僕は彼女を腕のなかから解放して、テレビの方へまた向き直った。そっぽを向いた僕に、背中の向こうでものすごく彼女が慌てているのが分かって、少し安堵する。電源の切れた真っ黒い画面に映る彼女は、彼女自身が思っているよりずっと、僕のことを好きであるように見えた。

実のところ僕はそれほど怒りを感じていたわけではない。そもそも僕はあまり怒ったりしない。相手が好きな女の子ならなおのこと。それに、さっき言われた台詞は、確かに僕にストレートパンチをお見舞いしてくれたけど、考え方自体は概ね同意できるものだった。僕だって寂しいし、きっとだって寂しい。寂しい一人と一人が一緒にいて居心地がいいのなら、それはそれで素晴らしいことじゃないか。
とはいえ、パンチのダメージは小さくなく、少し回復するまで黙っていたい気分だった。

沈黙を破ったのは、おそらく隣の部屋からであろう、かなり大きめな音だった。何かを落としたというよりも、壁に誰かが頭を打ち付けたのだろうと思った。大体どういう状況でそうなったか予想がついて、僕はふきだしてしまった。そういえば、一度僕もそうやってラブホテルの壁に頭を打ち付けたことがある。そのときに先にふきだしたのはの方だった。

「寂しいからだけじゃないよ」

思い出し笑いが収まってから、もう一度くるりと彼女の方を向いた。

「少なくとも俺はといたいと思ってるし」
「それは・・・どうも」
「あら、やだ、お嬢さん、照れてます?」

身を起こして、にやにやしながら彼女の顔を覗き込む。彼女は素早く顔を伏せて、口のなかでもごもご何か言い訳をしているみたいだった。それから俯いたまま、その小さな手で僕の手を握った。彼女の指先が、ごめんね、と言ったのがわかった。

彼女は素直じゃなくて、かわいげもないが、でもそこが好きだ。そこが彼女のいいところでもあり、そう思っているのが僕だけならいい。

「やだ、清純くん愛を感じちゃった」

勝手に緩む顔を抑えきれずに言うと、彼女は伏せていた顔を上げて、僕のにやけ面をにらみつけた。顔が真っ赤だ。

きみのためなら死ねる、とか言えるほど、僕の愛は彼女に対して自己犠牲的ではないかもしれないけれど、彼女が笑ってくれるのならば、できる限りのことはしてあげたいと思う。愛ってそういうもんでしょ。きみの指先から伝わるこの熱が本物なら、きっときみも僕を必要としているに違いない。最初はたとえ寂しいだけでも構わないから、この先はきみもできる限り僕のそばにいたいと思っていてよ。そうしたら、どれほど自分が僕のことを好きかわかるんじゃないの?

愛しき彼女の変なパジャマに手をかけながら、隣のカップルと同じことに勤しんだ後、そう伝えてあげようかな、なんて僕は思った。





過去作を加筆修正。清純くんはバカみたいに思慮深い人(2016.02.02)



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