海が見えた。揺れるバスの窓一枚を隔てて。何十年も開けられていないみたいに頑なな窓を必死で開ける。勢いよく入ってくる、湿った海の風。その風を舐めるように、少しだけ舌を出してみる。濃い潮の味がして、すぐまたしまい込んだ。隣で寝息を立てるブン太が、小さく身じろぎした。私は運転士に下車を知らせるボタンを押す。

寝起きの悪いブン太は、バスを降りて歩き出しても、熟睡中に起こされたことを根に持っているのか、不服そうに下を向いていた。何度も何度も欠伸をする音と、目をこするように、彼の影が小さく揺れる。私はそんなことお構いなしに、子供に戻ったみたいに高揚する気持ちを抑えられずに、彼を置いていくみたいに小走りで海を目指した。空は曇っていて、今のブン太と同じように不機嫌そうな顔つきをしている。天気予報では降水確率は70%だったが、例え雨が降り出しても、私には傘なんか必要ない気がした。雲の流れが速くて、全力疾走したって、とても追いつけそうにない。

二人とも何も話さず、無言で歩いていたら、不意に赤ん坊を抱いた女性とすれ違った。彼女と近づくにつれ、この空気よりもずっと濃い海の匂いを感じた。きっと地元の人だ。彼女は、見慣れない制服を着こんだ高校生二人連れに、少し怪訝な顔をしていたが、私とブン太が小さく会釈すると、少しだけ口元を緩めて頭を下げた。その頃になって、ようやくブン太も機嫌を直したみたいで、私の隣まで追いついて、並んで歩き出す。

「今の人、美人だったなー」
「ブン太好みの巨乳だったしねぇ」
「おう」
「おい、そこは否定するところでしょ」
「俺、嘘つくの苦手なんだよなー!」

ブン太は少し足を速めて、斜め前から私の顔を覗き込むようにして、にんまり笑った。むかつく。その後、私の反応に満足したのか、ギャハハと声を上げて笑い、私の手を取って走り出した。潮風を目いっぱいに吸い込んでいた私たちの手のひらは、どちらもなんだかべとべとしていて、変な感触だ。ブン太の手は子供みたいに熱い。

そのまま走って砂浜に着くと、ブン太は左手は私と手を繋いだまま、右手で上手に靴と靴下を散らかしながら脱ぎ捨てた。私も慌てて脱ごうとしたが、彼に追いつけずに彼の左手と私の右手は離れてしまった。潮風のせいでくっていていたお互いの皮膚と皮膚が、ぺとりとゆっくり離れていく瞬間を見た。

両手が解放された私は、ゆっくり靴と靴下を脱いで、砂浜に降りるコンクリートの階段の隅に寄せた。ついでにブン太の放り投げた所有物たちも、私のそれの隣に収める。曇天のせいか、砂浜の砂は驚くほど冷え切っていて、爪先が初めてそれに気づいたとき、思わず肩がぶるりと震える。それでも、私の準備が済むのを今か今かと待ち受けていたブン太は、そんなことをものともせずに、私の手を引いて海へと向かう。せっかくまくり上げた制服のズボンの裾には、既にいくつもの砂粒がくっついていて、海に入ると、それは波にさらわれては新しい仲間とバトンタッチしているようだった。リレーみたいだな。そう思って、顔を上げると、ブン太も自分の裾を眺めていたようだった。

「裾上げた意味全然ないね」
「俺もみたいにスカートだったらなー」
「うわー・・・想像したらちょっと似合うのが怖いわ」
「だろ?」

ブン太がまた大口を開けて豪快に笑った。眩しい。目を細める。灰色の雲に隠されている太陽は、本当はここに降りてきたのかもしれないね、きみになって。そんな詩人みたいな言葉が頭の中に浮かんで、あまりにこっぱずかしくて、顔に血液が集まるのを感じた。頬が熱い。勝手に赤面し出した私を、ブン太は思い切り怪訝そうな顔をして、喉の奥を鳴らした。

しばらくそうして波と戯れながら、二人して騒いでいた。ブン太は海水がズボンにどんどん浸食していくのもお構いなしに、波を蹴飛ばしたり、流れ着いたわかめを拾って足首に巻き付けてみたり、まるきり子供みたいだった。私はそんな彼を見ながら、笑いつかれてしまって、一人で砂浜へ戻る。ブン太は繋がれた手を解いた私に気づいていたが、今は、波打ち際に見つけた小さな蟹の親子にご執心のようだった。寄せては返る波を上手に避けながら、子供を背負った親蟹は、器用に歩みを進めていく。子供っぽいブン太は、てっきりその足取りを邪魔したりするんじゃないかと私は思ったのだけど、応援するみたいに拳を握りしめて、腰を折り曲げながら彼らを見つめていた。

別に何が嫌というわけではないのだ。学校は楽しいし、家族仲も贔屓目に見なくても、良い方だと思う。その上私には、朝っぱらから突然海に行きたいなんて言い出しても、詮索せずに着いてきてくれるような人だっている。何が不満で、何が不安なのか、自分でも分からず、それが一番私にとって怖いことなのかもしれない。

砂の上に、指で大きく「たすけて」と書いた。爪の間に砂粒が入り込んで、じゃりと不快な音がする。

自分が将来何をしたいのかが分からなかった。何ができるのかも。小さい頃はたくさんの夢を持っていたはずなのに、気づいたらすべて手元から零れ落ちてしまっていた。文字通り、夢みたいな話だ、と自分から切り捨ててきたのだ。そうして残酷に時間だけが流れて、私だけが、ただ進路調査票に何も書けない私だけが、取り残されていく。一人で。

そのまま砂の中に沈み込んでいきたい気分になって、砂浜に膝をつくと、突然目の前にびしょびしょの足が現れて、さっき私が指で書いた文字を、無遠慮に踏みつぶして、足の裏で擦って消してしまう。顔を上げるとブン太がいて、でも彼がどんな顔をしているのか、影が濃すぎて見えなかった。ブン太。独り言のようにそうつぶやくと、影が動いて、しっとりと濡れた手が、私の頭を優しく叩いた。胸に、小さく鈍い痛みが走る。

「ばーか!」

ブン太は怒鳴るようにそう言ったが、その声は妙に悲しげな響きを持っていて、私ではなく、ブン太が先に泣いてしまうんじゃないかと思った。

どうしてブン太は私なんかのそばにいてくれるのだろうか。昔私が抱いた夢のひとつのように大きくて、でも彼にとっては至極当たり前な未来を持っている彼が、どうして私みたいな何もない子のそばにいるのだろうか。私は彼に何もしてあげられていない、何も与えられない。試合に負けた彼を慰める器用さも、その悔しさを分かち合う度量も持ち合わせてはいない。それでも、私を一人で残して遠くへ行かないでほしいと願ってしまう、欲張りな人間だ。

「俺はが好きだ、」

だから好きなんだよ。ブン太は笑ったり、怒ったり、泣いたりする代わりに、私を引っ張り上げて、強く強く抱きしめた。熱い彼の体が、冷え切った私の全ての温度を上げてくれるみたいだった。きみは本当に私の太陽なのかもしれない。ブン太の赤い耳に、私の熱いほっぺたをくっ付けながら、灰色のカーテンの向こう側に、薄く輝く光を見つけて、私はゆっくりと瞼を閉じた。




いつかこのときがすべてモノクロになってしまったとしても、きっときみだけは、いつまでも私のなかで鮮やかにとどまり続けるよ。





約10年前の文章を少しだけ加筆修正。ブン太はヒーローみたいな人(2016.01.31)



material by mozneko

Close