言葉を発するタイミングをすっかり失ってしまった。わたしはいま、きっと青白い顔をしているに違いない。こんな場面をほかの部員に見られたらと思うとめまいがした。それでも、やはり何も言えずにただ彼の腕のなかにいた。
 榛名のからだはかたくてわたしとは違うけれど、わたしと同じように小さなこどもみたいに温かかった。ここが部室でなければ、わたしはおそらく不謹慎にも眠りに落ちていただろう。ただ彼の肩口にあたまをあずけて、何もわからないまま瞳をとじればいい。もし、彼がわたしの友だちの彼氏でなければ。

 窓の外はひたすらの雨音。しかしうるさいほどではなく、この四角い空間を埋めつくす沈黙を紛らわすにはちょうどいい。少しだけ息苦しさから逃げられているような気がするから。
 右の耳は雨音、左は彼の呼吸でふさがれていた。そのリズムに沿うように上下する彼の胸が、何度も何度もくりかえしわたしの心臓をつぶした。

「なんで何も言わねんだよ」

 水をかき分けるような声だった。一瞬左耳が聞こえなくなった。たぶん眠ったのだ、と思った。ゆったりと瞳をとじて、わたし自身も左耳の真似をした。わたしが何も言わないから、榛名もまた何も言えなくなってしまったようだった。

 わたしは小さいころから、嫌なことや何か面倒事があると、眠って忘れようとするくせがあった。小さい頃は"くせ"と呼べる程度のものだったが、もういまでは習性と言った方が正しい。クマやカエルが冬を越すためにするそれのように、わたしも生きるためにしばしば短い冬眠に落ちるのだ。見たくないものを前にしたときには、目はただのガラス玉になったし、聞きたくないものを耳にしたときには、聴力検査で異常のひとつも見当たらなかったこの耳が、単なるか生々しいかざりになった。
 最初は何か悪い病気なのかと不安にもなったが、あるとき母親とけんかをして、布団に入って瞳を閉じた瞬間、まぶたの裏で視界が開けた。わたし自身を守るために、目も耳も"冬眠"していたのだと気が付いたのだ。

「怒ってる?」
「は?」
「呼吸がさっきより荒くて早くなってる」
「……そんなくだんねえことには気が回んのかよ」

 榛名が呆れきったように深い息を吐いた。おなかの底の底の方から押し出したような感じで、ひどく熱く湿っていた。鎖骨から肩に向けて流れてきたそれは、めまいがするほど甘ったるいのに不思議なほど嫌な気はしない。少し息苦しいくらいに強い、力加減をしらないみたいな彼の抱きしめ方みたいだ。

 部室に入ってきた榛名はわたしを見つけた途端に、あいつのことがどうでもよくなった、とぶっきらぼうに吐き捨ててから、わたしを腕のなかに閉じ込めた。"あいつ"と言われてまっさきに浮かんだあの子の顔は、やけに晴れやかで美しい笑顔だったから、わたしはかすかに息をのんだ。何度も胸をよぎるその笑みは、わたしに抵抗させたかっただろうに、わたしの腕は深い眠りにまみれてだらんとまっすぐたれ下がっていた。もともとおしゃべりな方でなく、動きのにぶい唇もまるで機能しない。ただ、あたまだけがぞっとするほど冴えていて、彼の言葉と行動の距離を埋めようと躍起になっていた。そのこたえは、本当のところずいぶん前に見つけていたのだが、わたしはそのたびに眠りにつき、すべてを夢として処理しようとしていた。そうせずにはいられなかった。

「榛名」
「なんだよ」
「榛名はわたしのことが好きなの?」
「知ってんだろうが」
「……うん」
「だったらいまさら聞いてんじゃねえよ」

 また榛名の腕が、一段強く力をこめた。ぎしりと音がした気がして、誰かが来たのかと思ったのに、それはわたしの軋む音だった。指先に力を入れる。これ以上ないくらいに必死で神経を集中させると、腕が目を覚ましたのが分かった。

 夢だったらいい。ただわたしだけが見る、現実に何も影響をおよぼさない美しいできごとならば、わたしのどこも眠ることはなかっただろう。夢のなかでは、あの子の存在も、ここが鍵のかかっていない部室であることも、榛名以外のすべてが何の意味も持たなくなる。
 けれどもこれは現実で、わたしはただの臆病でちっぽけな高校生だった。大人のせかいをいくらか縮尺したくらいの、せまくて濃くて、わたしたちのすべてであるせかいの決まりごとに縛られていた。

 しかし、わたしの腕は目覚めたばかりで寝ぼけていたみたいだ。榛名の背にゆっくりとすべっていく。榛名はその感覚がまるで予想外だったのだろう。びくりと一度だけ肩を震わせた。

「ぜんぶ、夢だったらいいのに」

 わたしはいまになって初めて、まっすぐに彼の顔を見た。ゆるやかな瞬きのあと開かれた彼の瞳は、うすぼんやりとしたかなしみの雲で覆われていて、くっついた長いまつげは切なく震えた。
 わたしは深く息を吸い、また言葉を紡ぐ。

「榛名がわたしを好きなことも。わたしが榛名を好きなことも」

 ぜんぶ夢だったらいい。
 彼の瞳の雲はますます暗くにごり、雷鳴が聞こえるような気さえした。それはわたしにも伝染し、歪んだ視界では榛名の顔をうまくとらえられない。彼の輪郭が、万華鏡のように幾重にもずれて重なる。そのまま彼の顔が近づいてきて、唇が重なったとき、わたしは目の前でもう一度彼の切ないまつげをとらえた。それから目をとじて、静かに雨が降り出すのを待った。
 榛名の頬に落ちたあまつぶは、彼のこころにまで染みていくだろうか。



(2016.03.24)

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