ああ、結局渡せなかった。机の中から、昨日気合を入れてラッピングした箱を取り出す。中身はこれまた昨日気合を入れて作ったチョコマーブルマフィンだ。正直言ってお菓子作りには全く自信がないから、一週間前から練習に練習を重ねてここまでこじつけた(失敗作は全部水谷に押し付けた)なのに、結局勇気が出せず、放課後のこの時間になっても、こいつはまだ私の手から離れてくれない。未練がましく放課後無駄に残ってみたものの、阿部は早々に部活の練習に向かってしまって、チャンスなんてどこにもなかった。チャンスがあったとしても動けたかどうかは分からないが。教室のなかはがらんどうで、まるで私のおなかのなかみたいだと思った。一日緊張しっぱなしだったせいで、お昼もろくに喉を通らなかったのだ。

もう食べちゃおうかな。そう思って自分で綺麗に結んだストライプのリボンに手をかけたとき、ふと外から聞こえてくる野球部の声に違和感を感じた。いつも通り気合の入った大きな掛け声。昨日の私と比べても遜色ないくらいだ。けれど、そのなかにいつもの怒鳴り声みたいな大きな声が聞こえない気がした。

「何してんの?」

複数の声のなかから阿部の声を探そうと、席を立って窓際に歩き出したときだった。がらりと教室のドアが開いて、私が探していた声が予想外の方向から聞こえてきた。それは数百メートルは離れた窓の外からのものであるべきなのに、数十メートルくらいしか離れていないであろう背後からのものだった。まずい、机の上には乙女チックなピンクの包装紙に赤いストライプのリボンが半分だけ解かれたパンドラの箱を出したままにしている。慌てて振り向いて、机の横にかけていたカバンをひったくるようにして、机の上に放り上げた。ぐしゃっと嫌な音が響いたのは、現実かはたまた私の胸の内か。

「何で、阿部がいんの」
「いちゃ悪いかよ。つーか、挙動不審すぎるんだけど」
「そりゃ、いきなり声かけられたらびっくりするでしょ」

しどろもどろにごまかす私に、阿部は一歩一歩ゆっくりと距離を詰めながら、ふうん、ともったいぶった笑みを浮かべた。そのまま私の机の横まで来たところで、「何隠してんの」と私の机の上のカバンを見下げている。私はカバンを守るように両手で押さえながら、「何も」と言ったが、語尾が震えてしまった。阿部がカバンに手をかける。

「何かさっきすげえ音しただろ」
「は?し、してないよ?気のせいじゃない?」
「じゃあ、カバンの下見せてみろよ」
「いや、何もないし!というか、野球部!練習始まってるよ!」
「知ってる。肩にボール受けたから保健室行ってきたんだよ」

言われてみれば、肩のあたりが何か巻かれているみたいに盛り上がっている。しかし、しかしだ。保健室とこの1-7の教室はあまりに離れすぎていて、言い訳としては苦しいと思う。さっき私が机の上にあるものをカバンで隠したくらい苦しい。苦しいが、きっとカバンの下のマフィンは水谷に無理やり食べさせた数多のマフィンたちよりも不格好なものになっているだろうことを思うと、なおのこと阿部には見せられないとも思うから、この戦いは決して負けられないのだ。

カバンを片手で持ち上げようとする阿部と、両手で抑えつけている私とでは、なんとか私が優勢なまま均衡を保っていた。しかし、私が両手に力を込めれば込める程、阿部は持ち手を掴む位置を徐々に下にずらしていき、引き上げやすくしていっているようだった。負けるものかと思う反面、その動きに連動して、阿部との距離も少しずつ縮まっていて、私はカバンから目を逸らせない。少し顔をずらせば、阿部の顔面を至近距離で拝むことになりそうだ。私より10cmくらい背の高い阿部の息遣いが耳元まで降りてきていた。私の心臓は他人のものになったみたいにコントロールが効かない。台風の日の窓の外みたいに荒れ狂って、飲まれてしまいそうだった。

「スキあり」

阿部が私の最後の防波堤になっていた髪の毛をかき上げて、耳に息を吹きかけた。「うひゃあ!」となんとも情けない声が漏れて、咄嗟に自分の幸福な耳を右手で押さえた。あ、と思った瞬間にはもう遅く、さっきまで保たれていたバランスはあっさり崩れてしまい、崩れ落ちた先から潰れた箱が現れた。見るも無残なその姿に、自分の姿が重なり、すぐさま逃げ出したい気持ちになる。阿部が持ったままのカバンすら見捨てて身を翻し、教室のドアへ向かって走る。咄嗟の動きに阿部もすぐには着いて来られなかったようで、開け放たれたドアまで辿り着けた。しかし、私の快進撃はここまでだった。すぐさま追いかけてきた阿部に手首を掴まれ、もう片方の手で目の前のドアがぴしゃりと閉められてしまった。手を引っ張られ、無理やり体を回転させられる。目の前には恐れていた阿部の顔があって、逆光でよく見えなかったが、怒っているようにも見えた。阿部の口の端が微かに歪む。

「何で逃げんの」
「え、うーん・・・何でですかね・・・」

にへらっとごまかすように笑ってみても、阿部の顔は暗い影に覆われていて、その影すら少しも動かなかった。後ろ手にドアを開けようとこっそり腕を動かすと、目ざとく見つけた阿部がもう片方の手でまた私の手首を掴んだ。そのまま私の両手首をまとめて片手のなかに収めてしまう。これはますますまずい状況になった。しかも、この恰好はいくらなんでもおかしくないですか!

「阿部さん、これはちょっと、そのアレでは・・・?」
「だって、すぐ逃げようとすんじゃん」
「ハナシテクレタラニゲナイヨー」
「棒読みで言ってんなよ」
「スミマセン・・・」
「で?」
「で、と言いますと・・・?」
「あれ、何?」

阿部の頭が斜め後ろの私の机を指すように動いた。私は何も言えずに、阿部に掴まれた手首に目を落とした。阿部の手のひらから伝わる熱のせいで、暖房の切られた教室にも関わらず、そこだけ燃えるように熱かった。

「誰にやるつもりだったんだよ」

沈黙したままそろそろ観念して白状すべきかと思っていたところに、予想外の言葉が降ってきた。もう阿部に渡そうとしていたことはとっくにバレていて、からかうために自白を促されているのかと思っていたのに。まさかさっき怒っているように見えた顔は、本当に怒っていたのだろうか。期待と不安がからっぽの胃のなかを満たしていく。

「誰って・・・」
「あれ、チョコだろ。水谷からお前がえらく気合入れてるって聞いてたし」

水谷あの野郎。へらへらしながら阿部にばらしている水谷の顔が容易に想像できて、ものすごく腹が立ったけれど、同時にものすごく感謝の気持ちが込み上げた。こんな阿部を見れるのは、かなりレアかもしれない。私の期待が勘違いでなければ、という但し書きつきだけれど。ただ、じくじくと熱を上げる両手首から阿部の鼓動が伝わってくるようで、私は半ばやけっぱちに、ええい言ってしまえ、と言葉を繋いだ。

「あの、もしかして・・・焼きもち?」

恐る恐る阿部の顔を見上げると、大きなため息が降ってきて、阿部が萎れた花みたいに座り込んだ。手首は掴まれたままだったから、引っ張られるまま私も床に膝をつく。しゃがみこんだ阿部が自分の膝に額をつけながら、くぐもった声で「悪いかよ」と言ったのが聞こえた。その声はひどく弱弱しいものだったのに、私の心臓はぎゅっと強く掴まれてしまっていた。

「悪いかよ、妬いて」
「いや、」
「俺、結構待ってたし、一日」
「あの、」
「なのに、お前全然渡す素振りも見せねーし」
「え、」
「俺の勘違いかとか思うじゃん」
「ちょっと、」
「他の奴に渡すんなら潰れて良かったとか思ったしな、正直」
「待って!」
「なんだよ、謝らねーからな」
「いや、あれ、阿部のだし!」

漸く言うべき言葉を口にできた。すると阿部はがばっと顔を上げて、「言うのおせえんだよ!」と怒ったように言った。その耳を真っ赤に染めて。





阿部くんはとんだ青春ボーイ(2016.02.14)



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