阿部くんは野球部に入っている。ポジションはキャッチャー。教室ではいつも眠そう。もしくは気だるげ。そしてごくたまに笑っている。
私が隣の席の阿部くんのことを知っているのは、ただそれだけ。阿部隆也というちょっと気難しそうな男の子のごくごく表面の一部だけ。

「悪い。教科書見して」

隣から声が飛んできた。声の主は私の返事を必要としていなかったようで、隣からがたがたと机を移動してくる音がした。少し違和感を覚えたものの、相手にだけ机を寄せさせるのも申し訳ない気がして、慌てて自分の机を引き摺り、彼のそれに近づけた。彼の机の左と私の机の右が若干私寄りの陣地内でくっついた。

「忘れ物なんて珍しいね」
「今日当たる気がしたから、持って帰って忘れたんだよなぁ」
「意外と抜けてる」
「はあ?」
「いや、親しみ深いって意味ですよ?」

くくっと喉の奥で笑うと、阿部くんが隣で小さく息を吐いたのが分かった。
まだ先生は来ていなかったけれど、今日やるであろうページを開いて、ほぼ一つになった机たちの真ん中に置く。うまく折り目のつかない教科書はすぐひとりでに閉じようとするから、左端を自分のペンケース で押さえた。

「何で当たると思ったの?」
「あー・・・なんつーか、統計上?」
「統計?」
「説明めんどいわ」
「ひっど」

阿部くんとこんなに話すのは初めてかもしれない。少しとっつきにくいと思ってたのに、予想外に話しやすい。やっぱりちょっと気だるげだけど、普通の男の子だ。ほっと胸をなでおろしたところで、先生が入ってきた。

きりーつ、きをつけー、れいー、ちゃくせーき。

本日の号令係の間延びした掛け声に合わせてお決まりの挨拶を済ませると、午後一の現国の授業が始まった。先生は教科書のページを指定して皆に開かせると、早速今日の物語の読み手を探しているようだった。微睡んだ昼下がりの教室に少しだけぴりりとした不穏な空気が漂う。先生から目をそらしながら、教室内を盗み見ると、皆一様にうつむき加減に教科書を見つめ、出来るだけ先生の注目を浴びないように努力しているようだった。

「じゃあ、阿部・・・は、忘れもんか?」

阿部くんの統計を元にした予想が見事に的中したのか、または単純に仲良く机をくっつけているせいで目立ったのか、思案気な顔で教室内を見渡していた先生が、ふと阿部くんに目を止めた。横目でこそりと見れば、阿部くんは露骨に嫌そうに頬を歪めている。

「教科書忘れて、見せてもらってます」
「そうかー・・・なら!阿部の代わりに読んでくれ」
「え!」
「ん?何だ?」
「い、いや・・・はい・・・」

まさしくとばっちりだ。阿部くんはふうとひとつ息を漏らしたあと、不満げに起立する私を伺うように上目遣いで見上げた。思わず恨めしい気持ちで目を合わせると、彼の口角が緩いカーブを描いた。それは苦笑しているようにも、意地悪そうに笑みを浮かべているようにも見えて、私は遣る瀬無い気持ちで朗読を始めた。物語は今の私と同じように理不尽な仕打ちを受けた青年の苦悩を描写しているシーンで、今までで一番良く読めたと自画自賛したい出来栄えだったと思う。
けれど、先生の反応はいつもと変わらず、ごく軽く礼を言われて着席を促されたので、私のなかの遣る瀬無さはさらに増していった。だから、着席してすぐに、「続きは阿部くんが読みたいそうでーす」と口走ったのも、ほとんど無意識だったので、阿部くんには広い心で許してほしい。
私のその発言を聞いて、阿部くんは一瞬まばたきの仕方をど忘れしたみたいに固まった。けれど、私が満面の笑みで起立を促し、続きのページを開いたまま、ごくごく親切を装って教科書を彼の手に握らせると、眼光鋭く睨んできた。おお、怖い。
先生はそんなやりとりを見ていたのかいないのか、「やる気があるのは良いことだなあ」と抑揚のない声で喜びを表現した。阿部くんは観念したのか、もう一度だけ私の方をねめつけたあと、ゆっくりと朗読を始めた。次のシーンは女性が結婚式の前夜で胸を高鳴らせながらも一抹の不安を拭いされない、というもので、繊細な女心が情感たっぷりに描かれていたが、阿部くんの恐ろしい程の棒読みに、前の席の水谷が肩を震わせているのが見てとれた。かく言う私も、ふふっと微かに声を立てて笑ってしまっていた。

切りの良いところで阿部くんの棒読み女心描写タイムは終わりを告げ、先生は阿部くんを着席させると、また次のターゲット選びへと戻っていった。阿部くんの朗読で和んだ教室内が、再度静かにざわついた雰囲気をまとう。

「阿部先生の朗読、最高でした」
「お前、ほんとふざけんなよ・・・」

棒読みタイムでだいぶHPが削られたみたいで、阿部くんの声には覇気がない。すっかり意気消沈しているみたいに肩を落とした姿は、初めて見るものだった。
次の生贄が選ばれ、教室内にじわじわと安堵と静寂が広がっていった。私は筆談に切り替える。

『疲れてる?』
『誰かのせいで』
『いやー、先生も人が悪いよねえ』

シャーペンを握っていた右手に消しゴムが投げつけられた。咄嗟に避けたけれど、万年帰宅部の私の反射神経では完全には避けきれなかった。小指の第二間接に当たって軌道を変えた阿部くんの消しゴムは、水谷の椅子の下へころころと吸い込まれて見えなくなった。

『消しゴム使いたい?』

にやつきながら阿部くんの方を見ると、阿部くんの眉間には皺が寄っている。『怒ってる?』と紙の上から問いかけても、阿部くんは底意地悪そうに目を細めて横目で私を見やるだけだ。

『どうぞお納め下さい』

今の朗読担当者がお役御免になれば、これから恒例の小テストだ。前の席で船をこぎ出している水谷に声をかけるのは憚られたから、仕方なく阿部くんにいつもの消しゴムを譲ってあげることにした。ははーっと平身低頭に自分の消しゴムを阿部くんに献上した。

はどうすんの?』

少しだけ機嫌を直したらしい阿部くんからのお返事。私は大仰にペンケースからもう一つ消しゴムを取り出した。気分はドラえもんで、出来れば効果音を口ずさんで頂きたい。
印籠のように得意げな装いで阿部くんに見せつけると、阿部くんは抑えつけた笑いが思わず漏れた、という感じの変な音を出して噴き出した。ぎゃはっとか、ぎへっとか、とにかくそういう感じの音で、本気の笑い声を本気で我慢しているみたいな。口元を押さえながら頬を紅潮させる阿部くんは子供っぽくて、かわいらしいなと思った。

その後阿部くんの笑いがひと段落したところで、ちょうど小テストのプリントが前から回されてきた。一応がたがたと席を離して、15分間後に答案を交換して採点した。阿部くんは「作者の気持ちを答えなさい」といった類のよくある質問が苦手のようで、でもその解答はとてつもなく直球で(なんなら本文の模写)、とにもかくにも阿部くんらしい感じがした。阿部くんの表面の上澄みくらいしか知らないくせに、そう思った自分がおかしかった。
答案に○×をつけて、先程のお詫びもかねて先生の簡単な解説コメントまで付記した上で、自分の答案と阿部くんの答案を交換する。自分の答案は大体○がついていて、右端に赤ペンで小さく『すげえな』と書いてあった。
一方阿部くんは自分の答案のなかに私のコメントを見つけたようで、くるっと私の方に顔だけ向けて、「はあ?!」と、眉を顰めた心底嫌そうな顔をしながら口パクした。

『阿部くんはもっと笑うとモテると思うよ』





阿部くんの理系男子感(2016.02.09)



material by mozneko

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