急に冷たさを増した風が、素肌と服の間を撫でていった。最近は季節の移り変わりが優しくなくなったような気がする。唐突に暑くなったかと思うと、また突然寒くなって。春や秋といった曖昧なものを好む彼女は、くちびるを尖らせながら不満げにそう言っていた。それから、人間が地球に優しくしないからだー、などとなんだか子供めいたことを口にした。

「もう一軒行くぞー!」

月曜日の繁華街は変ににぎやかだ。週末家族サービスに徹した父親たちは、待ってましたとばかりに街に繰り出し酒を酌み交わす。口では週の始めの景気づけだなんだと言っているが、結局理由をつけて飲みたいだけだ。もしくは家に帰りたくないとか。そこまで考えて、先日の彼女の苦い顔を思い出して、ひとつため息をつく。酔っぱらって先ほどの言葉を繰り返す、少し前を歩く同僚の薬指には、きらりと今の俺には眩しすぎるくらい輝くものが飾られている。さらにおなかの底から熱い息を吐いた。少し飲み過ぎたかもしれない。

俺の彼女は一貫性がない。とんでもなく稚拙なことを言ったかと思うと、急に教師みたいな顔つきになって、俺によく考えなさいよ、などと説教じみたことを言う。さっきまで泣き出しそうな顔をしていたのに、次の瞬間には楽しそうに笑っている。まさに秋の空だ。ただ、俺はそれを少し、いやかなり好ましいと思っている。つまりは、どうしようもなく惚れているのだ、彼女に。


「よく考えて」

彼女の言ったこの言葉を、この一週間、毎日毎日頭のなかで反芻し続けた。まずは輪郭をなぞり、表面を確かめ、中を覗く。しかし、単純な俺には、複雑な彼女の気持ちなど理解できそうもなかった。いや、したくないといった方が正しいか。

先週末、意を決して彼女にプロポーズをした。とはいえ、実はこれが初めてというわけではなく、二度目の挑戦だった。一度目は、世にいうこれぞまさにプロポーズ!というものをやってみた、やってみる予定だった。そのはずだった。夜景の綺麗なレストランを予約して、今まで一度も渡したことのなかった花束を用意した。それから定番の給料三か月分の指輪を、青いつやつやのスウェードの箱に入れて、彼女からもらった濃紺のジャケットのポケットに忍ばせた。前日の夜はろくに眠れず、幾度も脳内でシミュレーションを重ねた。

結婚しよう。ずっとそばにいてほしい。君と年を重ねたい。

いくつものこっぱずかしい台詞たちが、頭の中で浮かんでは消え、結局布団の中で悶絶しながら朝を迎えた。しかし、ある意味覚悟が出来た朝、気合を入れてカーテンを開けると、生憎の雨、といえるほどのかわいいものではなく、土砂降り状態。なんなら嵐だ。昨日の天気予報では、明日は快晴!とお馴染みのお天気お姉さんが、にこにこしながら自信満々に言っていたのに、だ。

それでも、ここで負けたら男が廃る。俺は半ば意地になって、少々及び腰になった気持ちに気合を入れるため、冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗い、念入りに髭を剃り、ストライプのシャツに黒のパンツ、そして昨日準備したジャケットを羽織って家を出る。正直、ちょっとしたデートなら時間もしくは日程変更を願い出るほどの雨だったが、気合を入れて車まで走り、彼女の家へ向かった。家から車までの数十秒の間に、恐ろしいほどの雨は、お気に入りのジャケットを濡らし、激しい風はせっかくセットした髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜてくれた。


「あ、やべ、電話だ」

先ほどまで上機嫌だった同僚の顔が一瞬で曇る。激しく怒鳴りだしたスマホを慌てて胸ポケットから取り出し、なるべく静かな、人の声の聞こえない、できれば一人で残業をしているオフィスにいるような場所を探して、路地裏へ飛び込んでいった。おかげで俺は苦い記憶の世界から引き戻された。少し残念な気もしたが、その倍以上ほっとしている。正直、その後のことは思い出したくない。

彼女の家の近くに着いて、車を降りて迎えに行ったはいいが、駐車場まで二人して歩く道すがら、傘がこうもりになって飛んで行ってしまった。悲鳴をあげる間もなく、俺も彼女もびしょびしょに濡れてしまい、彼女は一周回っておかしくなってしまったようで、楽しそうに笑い出す始末だ。俺はこの後の計画のことを思い、泣き出しそうな気持ちだったが、笑う彼女のつるんとした頬に大粒のしずくが落ちて滑って地面に落ちるのを呆然と眺めていると、なぜだかこっちまで笑えてきてしまい、二人で手を繋ぎながらもう一度彼女の部屋に戻った。

それから一緒に風呂に入って、やることやったら眠くなってしまって、ふわふわと眠りに落ちて目を覚ますと、彼女が例のジャケットを乾かしながら、なにやら考え事をしているようだった。机の上には小さな青い箱。俺はなんともばつの悪い気持ちで、起きていることを悟られないように、こっそりと寝返りを打って再び目を閉じたのだった。


同僚が、あの日の俺と同じような顔をして、路地裏から出てきた。やはりこんなところで一人で残業のふりをするのは、土台無理な話だったようだ。小さく何度も頭を下げながら去っていく彼に、ひらひら手を振りながら、俺は結婚とはなんぞや、なんて仕様のないことを考え始めていた。

一週間前の日曜日、彼女の部屋で夕飯を食べていた。目の前には楽しそうに笑う俺のかわいい彼女とおいしいごはん。この時間にいつか終わりが訪れると思うと、急に居ても立ってもいられなくなって、結婚しよう、とあの日言えなかった言葉がするりと口をついて出た。彼女は俺の作ったじゃがいものつぶれ切れていないポテトサラダを、ちょうど大口で頬張ったところで、しばらく静かにそれを咀嚼していた。彼女は食べ方がとても丁寧で、俺はそんなところも好きだった。

それから彼女は少し俯いて苦い笑顔を浮かべたように見えた。困ったように眉根を下げて。

「ねえ、水谷。よく考えて、ね」

彼女はそれだけ言って、またポテトサラダを頬張った。俺は目の前に散らばったその言葉を目で追って、拾い上げて、彼女の作ってくれたハンバーグと一緒に静かにかみしめた。

俺は駄目な男だっただろうか。正直なところ、完璧な彼氏か、と問われると、全くもって自信はないが、彼女に対する気持ちだけは、彼女を幸せにしたいという気持ちだけは、誰にも負けない自信がある。こんなこと恥ずかしくて誰にも言えないけどね。

一度目のプロポーズに失敗したときから、彼女は俺にある種の失望を覚えていたのかもしれない。そう思ったが、それ以上考えたくなかった。彼女を失うことなど、俺には想像もできない。俺はきみと一緒にいたい。一緒に年をとって、おじいちゃん、おばあちゃんになっても、名前で呼び合いたい。今は水谷と呼ぶ声で、文貴と呼んでほしい。ずっと。ゆっくり歩いて、たまに立ち止まって。きみさえいればそれで、とは言えないかもしれないが、きみがいなければ、俺の生活は一気に色を失ってしまう。当たらない天気予報のように、俺がきみの気持ちを100%理解することはできないかもしれない。だけど、それでも。

ぽつりと小さな雫が頬を叩いた。あの日の彼女のつるりとした頬がフラッシュバックして、彼女が隣にいないことが、とてつもなく不思議なことのように思えた。シャッターの閉まった店の軒先で雨宿りしながら、ポケットからスマホを取り出す。着信履歴から彼女の名前を探し、通話ボタンを押した。

「雨が降ってるのに、が隣にいないのは変だ、と、思うんだけど」
「なにそれ?」
「・・・こないだの、よく考えた答えです、俺なりの」

何度目かのコール音の後、そう告げると、電話口の愛しい秋空はふわりと笑い出した。





水谷は振り回され系男子(2016.01.31)



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