居眠りをしていた。幕が上がり、徐々に光が漏れてくる。
腰が曲がっている。固い感触がする。ベッドではない。聞き覚えのない音が鼓膜を揺らしている。眠気のせいかと思ったが、本当に知らない言葉だ、と記憶が答えた。
そうだ、ここはフランスだ。どちらかと言わずとも家にいるのが好きで、根っからインドア派の私が。海外なんて大学のときの卒業旅行と、仕事で(しかも嫌々)数回しか行ったことのないこの私が。一人でフランス!
その事実にぐいと引っ張られると同時に、意識がはっきりしてきた。先程からの宇宙語みたいな言葉の濁流は、隣の席の宇宙人Aと、通路を挟んだその隣の宇宙人Bから発せられていた。
これは席を変わった方がいいのだろうか。しかしどう声をかけたものか。
急速に覚醒の世界へ引き戻されたせいで、今さら寝たふりを決め込むのは、なんだかばつが悪い気がした。
座り直すだけです、と言うでもなく、少し腰を浮かせて前かがみに、宇宙人たちの向こう側の様子を伺う。宇宙人Bの隣の席の人が、私と同じように居心地悪そうにしていれば、その人が声をかけてくれるのではないかと、他力本願な淡い期待を抱いていた。
金髪が見えた。光を含んで透けるように輝く金色の絹糸。しかし、その髪の持ち主はこの状況に関心がないのか、窓の外を眺めていて、表情はうかがい知れない。背格好と身に着けている服から、おそらく男性である、というくらいは分かった。
せめて日本人だったら……!などと、典型的日本人に思いを馳せつつ、私は情けなく座席に深く座り直した。
いいんだ、いいんだ!どうせ二度と会うこともなし。何で旅先の、しかも傷心旅行で赤の他人(しかも言葉の通じない宇宙人だ)を気遣ってやらねばならんのだ!
半ばやけになりながらそう思い直して、私は先ほどまでと同じように、腕組みをして背もたれに頭をあずけた。散らばる宇宙語たちは、聞くでもなく流していると、心地よい水音によく似ていた。川のせせらぎ。瞼を閉じれば、また眠りの世界へ落ちていきそうだ。
ブルターニュのリゾート地。シーズンには、自国民のみならず欧州各国の人々がバカンスに押し寄せるその地は、日本のガイドブックには載っていない。もしかしたら根気よく探せば一つくらいは見つけられたのかもしれないが、私はそうせずに、空っぽのままその地へ向かうTGVへ乗り込んでいた。
一度行ってみたいんだよなぁ。そう言っていた、少し前まで私の隣で笑っていた人を思い出す。人生最後の恋かもしれない、とロマンチックなことを考えていた私の前からあっさり去っていったその人の、その言葉だけを頼りに、私はそこへ訪れてみようと決めたのだった。
センチメンタルな気分で目を閉じると、目頭が熱くなって、鼻がつーんと痛んだ。ころりと落ちた雫が頬の上を滑っていくのを感じた。慌てて指先の腹で拭う。鼻をすする。すると、それに気づいた宇宙人Aと目が合った。すごい勢いでまくし立てられる。
目まぐるしく押し込まれる音。音。音。私は目を丸くすることしかできず、額に、背中に、悪寒が走って、嫌な汗が浮かんでくるのを感じた。先ほどまでの悲しい気持ちが吹き飛んだ代わりに、八つ当たりにも似た感情が湧き上がってくる。
なんだなんだ、席を変われとかそういうことか。望むところだ、ちきしょうめ!
鼻息荒く立ち上がると、今度は宇宙人Aが目を丸くした。宇宙人Bも、何事かとこちらを見ている。何かを誤ってしまったらしい。一気に恥ずかしくなって、江戸っ子さながらの勇ましい気持ちはすっかり萎んでしまったが、だからといって座り直すことも出来ずに立ちすくんだ。
宇宙人Aは今度は少しゆっくりめに、穏やかな口調で声をかけてきた。言われたことは相も変わらず一切理解できなかったが、その音が温かいことだけは分かった。
視界の端で金色がきらきらと反射した。
"Excuse me, lady?" と、聞きほれるような美しい声が聞こえた。通路へ出てきた金髪は、なにがしかを彼女に伝えている。英語なら少しだけ分かるぞ、と聞き耳を立てた。かろうじて聞き取れた単語を繋ぎ合わせて、行間を埋める(この作業は得意だ)
「英語は分かりますか」
「少しだけ」
「それはよかった。おそらく彼女はフランス語を理解できないのだと思います。よろしければ私が通訳しましょうか。私は日本語が少し話せますので」
という感じだろうか。ただ、そこまで理解が追いつく頃には、そのあとにも続いていた二人の会話は終わってしまっていて、宇宙人Aは席を移動し、そのあとの空いた席に彼が腰を下ろした。それから、その端正な唇から「座らないのか」と流ちょうな日本語を零した。
驚いて、目を見開いたまままじまじと見つめてしまう。彼は恥ずかしそうに頬を赤らめながら、「い、いいから座れって」と言った。四方から降り注ぐ複数の視線を感じて、私も慌てて席についた。
「これ、渡してくれって」
真っ赤なりんご。ずしりとした重量感があって、不思議と手に馴染んだ。とはいえ、疑問符が浮かんだ。その顔のまま彼へ向き直れば、彼がまだ赤い頬を抱えたまま目をそらした。
「お前日本人だろ?あのレディが以前旅行中に日本人に世話になったんで、その御礼だそうだ」
それから、と一度彼が言葉を切った。わずかに眉を下げて、「泣いてたから気になったって」と続けた。
私はその問いともとれる言葉には応えず、つるりとしたりんごを撫でた。蜜のせいか少しぺとりとした感触があって、見た目ほど指滑りがよいわけではなかった。なぜだか隣の彼に似てるなと、彼とりんご、交互に視線を這わせる。
彼の肩越しにさっきの宇宙人Aが見えた。にこりと微笑んだ、いや、それよりも先に、その顔がみるみる色づいていくのに気が付いた。のっぺりした表情のないグレーだけに見えていた。しかし、宇宙人Aは、彼女は、深いしわがいくつも刻まれた白い肌に、ピンクの頬と控えめなベージュのルージュがひかれた唇を持つ、優し気な年配の女性だった。
思い込みとはかくも恐ろしきものか。目まぐるしく変わっていく光景に目を白黒させながら思う。
宇宙人ではなく、彼女へ御礼を言わなければ。そう思ったのに、言葉が詰まって、ひゅ、と不格好な空気が喉から漏れる。"Thank you."なんて、今時幼稚園児でも知っている。でも、私は彼女の言葉でお礼を言いたかった。フランス語でありがとう、フランス語でありがとう…。ぐるぐると日本語で考えていてもどうしようもない。少しくらい調べておけばよかった、と後悔したが、後悔先に立たずというやつだ。
隣の彼はそれに気づいたのか、シニカルな笑みを浮かべながら、私にだけ聞こえる声で"Merci bien."と言った。それから、大げさな程もったいつけた速度で、"Repeat after me."と続ける。単語ひとつひとつを嫌味っぽく区切りながら。
やなやつだ。ものすごいやなやつ。けれども、私のような溺れるものは、たとえやなやつの藁でも掴まずにはいられない。
「Merci bien.」
りんごを両手で持ってわずかに掲げるようにして言った。頼りなげなそのつぶやきを拾い上げた彼女は、何ごとか言葉を発したあと、隣の友人らしき宇宙人B、もとい彼女と同世代くらいの白人女性とはしゃいでいる。
「Charmant?」
「かわいい」
彼女が発した言葉を復唱したら、隣の彼がそれに被せるように答えた。
隣の彼は、アーサー・カークランドと名乗った。白人である、ということしか認識できない私が、「地元の人?」と尋ねると、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
英国人。
日本語が話せる理由は、日本人の友人がいるから、らしい。赤面してどもりながら言っていたから、きっと彼女か、彼の思い人が日本人なんだろう。であれば、先ほど親切にも(いちいち皮肉っぽかったけど)、私と女性の間に入ってくれたのも頷ける。きっと放っておけないのだ。自分の愛しい人と同じ国から来た人間を。
「旅行か」
「まあね」
「オフシーズンにこんなとこ来ても面白くないぞ」
「いいじゃん、別に。アーサーだって似たようなものじゃないの」
「まあな」
目を合わせて笑う。
異国の、しかも日本人でもない人と日本語で会話をしているというイレギュラーが、私の心を不思議にほぐしていた。初対面の人間に敬語を使わないなんて、普段の私なら考えられないのだが、そんな細かいことに気を配るのがばかばかしくなっていた。そもそも慇懃な敬語を彼が完璧に理解できるかもわからない。
窓の外に目をやると、必死な思いでこの列車に乗り込んだときよりも、はるかに美しい景色が広がっていた。
「一人か」
「レディに対して失礼じゃない?」
「ああ、悪い」
「うそうそ、冗談だよ。うん、一人。傷心旅行」
しょうしんりょこう。傷ついた心を癒す旅?なんだかしっくりこない。
言葉の意味が通じるかは分からなかったけれど、なんとなく反応が見たくて言ってみた。アーサーはその宝石みたいな瞳を一度見開いたあと、気まずそうに目を落とした。金色の長い睫毛が頬へ影を落とす。
「変なこと言ってごめん」
なるだけ明るく笑って見せる。
「いや・・・俺の方こそ悪かった」
「謝られるとみじめさが増すからやめてよ」
「あ・・・悪い。って、違うな。うーん」
唸って考え込むアーサーに、今度は自然と笑いが零れた。
「アーサーも旅行なんだよね?」
「兼、仕事」
「仕事なの?何してるの?」
私が無理やり話をそらしたのは分かっていたのだろうけど、アーサーは気づかないフリで自分の話をしてくれる。
私たちの目的地は、単なるリゾート地というより、特にアッパークラス向けのリゾート地らしい。そのためホテルはそんなにない代わりに、とにかく別荘が多くて、しかもそれらはかなり良い値の庶民には一生かかっても手が届かなさそうなレベルのものばかり。アーサーはその手の客層をターゲットに不動産業を営んでいるらしく、今回は商談の一環で訪れたとのことだった。
「シーズンオフで静かだし、ついでにのんびりしようかと思ったから、仕事兼旅行」と、いたずらっぽく笑う。
その笑顔に見惚れそうになって、はたと気づいた。先ほどアーサーは「ホテルはそんなにない」と言わなかった?
「ちょっと聞いてもいい?」
「おう、なんだ」
「ホテルって、そんなにないって言っても、この時期なら普通に泊まれるよね?」
「いや、無理だと思うぞ。大体シーズン中にたっぷり稼いだら、それ以外の時期は休業してるところばっかだなぁ。元々道楽的にやってるところも多いんだろ、金持ちの」
"休業"という言葉を聞いて、途端に血の気がひいた。
別れた元彼の言葉だけを頼りに、溜まった代休と有休をくっつけて、突然決めたこの旅行は、もうこうなったら全部行き当たりばったりでいってやれ!と、航空券だけしか手配しておらず、ホテルの予約なんてとっているわけがない。
考えなしの日本の私に呪いの言葉を投げつつ、頭を抱える。
「おい、お前まさか……」
「…はい、そのまさかです」
「はあ?!」
「現地でホテル決めるとか恰好良くない?とか浅はかなことを思ってました……申し訳ございません」
深いため息が降ってくる。アーサーは完全なるあきれ顔のまま、「一応、俺の宿泊先に融通利くかあとで聞いてやるから」と唇を歪めた。曇ったエメラルドに、いたたまれない気持ちが襲ってきたが、なにしろ私が掴むことのできた藁は、目下彼しか存在せず、おずおずと申し出を受けるよりほかない。
申し訳ない気持ちでアーサーを見ていたら、「大丈夫だ、なんとかするから」なんて優し気な言葉を投げられ、ますます肩身が狭い。
それから間もなくして、TGVは私たちの目的地の駅へ滑り込んだ。荷物を頭上の物入れから下ろそうと手を伸ばすと、アーサーが至極当然のような顔で私を制し、荷物を下ろしてくれる。それから振り向いて、先ほどのレディたちの荷物も同じようにこなした。
"Thanks."と、その親切を自然に受け入れられる彼女たちが眩しい。一方の私はと言えば、「ありがとう」と縮こまった声で呟いたが、アーサーはそれが聞こえたのかどうか分からないくらいなんでもない顔をしていた。
プラットホームへ降り立つと、かすかに潮のかおりがした。一瞬で肌を縮こまらせるような冷たい空気が頬を撫でる。
こんなに寒いのか。またも予想外なことに戸惑ってしまう。海外旅行初心者が、何も調べず、何も決めずに旅立つなんて、随分と危険なことだった。改めて自分の無鉄砲さと、普段とのギャップに肩を竦めた。
ふわりと、首に柔らかいものが掛けられた。見覚えのある柄に、アーサーを見る。
「いいよ、大丈夫だから」
慌てて外して返そうとしたが、受け取られることのないマフラーが私の手のなかで風にたなびいていた。
「見てるこっちが寒くなるから。黙ってつけてろ」
アーサーはそう言うと、断固として受け取らないとでも言うように、私に背を向けて歩き出した。私は手のなかのマフラーと彼の背中を交互に見比べてから、お言葉に甘えることにする。
ぐるりと一巻きして、残りを胸の前にたらした。ふわりと薔薇のような甘いかおりがする。
レディたちは去り際、アーサーに何かを伝えてメモのような紙切れを渡していった。こちらに背を向ける前に、一度私ににこりと笑いかけてくれる。私もそれに応えるように笑った。
彼女たちの背中が遠ざかるのを待って、赤い顔をしているアーサーに尋ねる。
「何だったの?」
「予定がなければ遊びに来いだそうだ」
アーサーの手のなかのメモには、簡単な地図と住所が書き込まれていた。
私は彼女に親切にした日本人その人ではないのに、その義理堅さに驚く。武士も真っ青だ。それとも、彼女は私の涙の理由が気になっているのだろうか。
「ところで、何か顔赤いけど」
「な!なんでもねえよ、ばかぁ!」
とぼけて尋ねたが、本当はアーサーが動揺しまくる理由を多分知っている。
去り際のレディの言葉は、推測するにこうだ。
「とても良い雰囲気ね。二人のクピードーになれたのなら嬉しいわ」
行間を埋めるのは得意なのだ。
私の頬も心なしか熱い気がして、アーサーにばれないように彼のマフラーに顔を埋めた。
(2016.03.12)
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