私の家には、お父さんとお母さんとお姉ちゃんと私の四人が住んでいる。1階には皆で見るための大きめのテレビとふかふかのソファーがあって、その隣にはダイニングキッチン。ごはんを食べるときには、その日起こった何でもない事を話すという使命が我々家族には課せられていて、そのためかテレビは置いていない。それからお父さんがごろごろしながら本を読んだり、たまに持ち帰った仕事をするための書斎兼和室があって、そこにはこたつがあるから、寒くなると家族みんなが入り浸ってみかんを食べたりする。もちろん、ごく一般的なご家庭には欠かせない、お風呂とトイレもある。2階にはお父さんとお母さんの寝室とお姉ちゃんの部屋と私の部屋。それからもう1つトイレがあるのは、朝の家族の平和を守るためらしい。確かに効果は抜群だった。

 この辺りの家は建売住宅というやつらしく、大体が皆似たような間取りのお家で、たぶん私の記憶が確かならば、隣のカークランドさんの家もほとんど同じ造りをしていたはずだ。カークランド家には私と同い年の男の子がいて、幼い頃はしょっちゅう行き来していた。彼は気難しく大人びたつもりの、端的に言ってしまうと非常に面倒くさい子どもで、近所に住む同年代の子たちが自然と仲良くなっていくのを尻目に、部屋に閉じこもって本を読んでいるような子だった。私はその子のお母さんから、引っ越してきたその日に、どうぞよろしく、と少し焦げたスコーンをもらったことに、妙に恩義を感じていて、たびたび彼を遊びに誘った。何度も断られている内に、私も近所のがきんちょ軍団からはぶかれてしまったけれど、そのことはさほど悲しくもなかった。それよりも、焦げたスコーンをくれた彼のお母さんが、いつの頃からか姿を現さなくなっていたことの方が悲しかった。

 彼が非常に嫌そうな顔をしながらも、私を家へ上げてくれた日、私は私の家ではこたつを置いて、皆でごろごろするための部屋に、彼のお母さんの写真が飾られているのを見た。夕暮れだったのか、妙に薄暗くて、写真立てはつやつやと丁寧に手入れされている感じがしたのに、彼のお母さんの笑顔は薄い擦りガラスの向こうにあるみたいに灰色に見えた。彼――アーサーカークランドは、私の視線の先に気づいたのか、宝石みたいに冷たくて綺麗な瞳を彼のお母さんの写真と同じように灰色っぽく曇らせてから、パタンと襖を閉めてしまった。私はなんだか彼の心から締め出されてしまったような気がしていた。

 けれども、それから彼はたびたび私を自分の部屋に上げ、おすすめの本等を貸してくれるようになった。最初は私に本を押し付けるとすぐに追い出したが、私が借りた本の感想を一生懸命言葉にして伝えたところ、彼はようやく気が緩んだのか、一緒に部屋で本を読んだり、カークランドさん家のお庭いじりに付き合わせてくれた。小さな青いスコップと銀色のぴかぴかのじょうろ。私が赤いスコップと緑のぞうさんのじょうろを持っていくと、彼は「なんだそれダサいな」とか小生意気なことを言いながらも、私が帰る間際、綺麗に土を落として、自分の持ち物と一緒に大事にしまってくれたのを目撃した。にやにや笑うと、「嫌だって言っても、どうせ明日も来るんだろ!」と地団太を踏んだ彼の顔は、最高に愉快な思い出だ。

 そういえば、あのスコップとじょうろ、結局どうしたんだっけ。視線の先にコンビニを捉えたところで、ふとそう思った。そうしたら、恐ろしくタイミングが良いことに、県下一の進学校の制服に身を包んだアーサーカークランドを見つけた。ちょうど店内に入ったところらしく、雑誌コーナーを流し見ながら欠伸をしていた。私はというと、適当なTシャツにジーンズ、それから急に肌寒くなったからと箪笥の奥底から引っ張り出してきたグレーのパーカーを羽織った何ともリラックスムード溢れる恰好をしていた。夕飯後に気まぐれに散歩がてらコンビニに寄ろうと思っただけなのだ、仕方ないだろう。少しためらったが、ガラス越しに目が合いそうな気がして、勇気を出して手を振ってみた。アーサーは欠伸後の生理的な涙で濡れた瞳をまあるくしてから、二、三度慌てたようにまばたきをした。その拍子に溜まっていた涙が零れ落ちたのか、制服の袖口で目もとをこするのが見えた。

「久しぶり。今帰り?部活?」
「違う。塾」
 久しぶりの再会だというのに、アーサーはつまらなさげに私の顔も見ずにそう答えた。学校指定の彼のカバンはずっしりと重そうに中身が詰まっているように見えた。アーサーのふくれっ面みたいだ。小さな頃、何か気に入らないことがあったり、逆に嬉しいことがあったときも、彼はふくふくした白い頬を真っ赤にしながら膨らませてそっぽを向いた。やわらかい焼きたてのパンみたいに甘いかおりがして、私は時々無性にそれを触りたくなったものだ。
「塾……塾かぁ……」
「お前も来年から受験だろ。せーぜー頑張れよ」
 意地悪い顔をしたアーサーと目が合った。ガラス玉みたいな瞳に私のぽかんとした間抜け面が映っていた。彼はすぐに興味を失ったように商品棚の方へ目を落とす。カップスープの棚だった。一番上にあった豆腐の味噌汁を手にとるのが見えた。意外なチョイス。
「夕飯?」
「違う、朝飯」
「作んないの?」
「たまに作るけど、面倒だろ、ほら、片付けとか」
 歯切れの悪い言葉が続いたが、それはまるで空間に溶けていくように小さくなっていった。

 カークランドさん家のお母さんは彼が小さな頃にいなくなってしまった。彼が小さな頃、ということは、私も小さな頃なわけで、あまり詳細は知らないけれど、事故だったらしい。突然に母親のいなくなったカークランド家では、お父さんが一人二役を務めるしかなかったのだけれど、私が彼とだいぶ仲良くなった頃には、彼はよく我が家でごはんを食べるようになっていた。私の両親の前では、アーサーは恐ろしく模範的で礼儀正しくかわいい子どもを演じていて、私と二人きりになると驚く程かわいくない子どもに戻るのがおかしかった。

「またうちにごはん食べに来ればいいのに」
「いいよ、別に」
「照れてんの?」
「そんなんじゃねーよ」
 アーサーはおにぎりの棚に移動して、ツナマヨを手にとった。
「野菜は?」
「食ってる」
「ほんとに?」
「うるせーな、もう」
「……作りに行ってあげようか」
「は?」
 自分で自分の言葉に驚いた。けれども、私以上にアーサーの方が驚いているようで、さっき嫌味を言われたときの私よりもはるかにぽかんとした間抜け面で固まった後、みるみるうちにその白い頬が真っ赤に染まっていく。懐かしい。昔の焼きたてパンみたいに柔らかそうではない、男の子ではなく男の人に近くなってしまったその頬が、けれども酷く懐かしくて眩しくて、甘くて無性に触りたくなった。両手を伸ばして彼の頬を包んだ。熱い感じがした。アーサーはさらに頬を赤くして、額まで赤くして、何事かと口をぱくぱくしていた。陸に打ち上げられた魚のように、必死にもがいているように見えた。
「よし、明日、作りに行ってあげる」
 そのままむにっと両手で彼の頬を潰すと、弾かれたように彼が頭を振ったので、私は慌てて手を引っ込めた。
「豆腐のお味噌汁とツナマヨのおにぎり。一緒に食べよう、アーサー」
 真っ直ぐ見つめた先の彼の顔はまだ耳まで真っ赤だった。


(2016.12.18)

material by Miss von Smith

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