「次、止まります」と、抑揚のない声が車内に響いた。
 先ほどアルがうれしそうに押したボタンは、日光のせいで電池切れでも起こしているみたいに見える。
 今日は雲一つない抜けるような青空で、バスの大きな窓から差し込む日差しが、赤いランプを溶かしてしまっているようだった。

 目的の停留所でバスを降りると、ふたりして海沿いの道を歩いた。アルはわたしを歩道側に押し込んで、わたしの英語よりもよほど流ちょうな仕草でわたしの手をとった。
 アルとつないだ手と反対の方をブルゾンのポケットに突っ込み、アルの肩越しに海を眺めた。
 秋めいた、というよりももう冬の足音が聞こえてきそうな砂浜には、腰の曲がったおじいさんと大きな犬が慣れた風情で散歩をしているだけで、ほかに人影は見えない。そのせいか、水面はふしぎに澄んでいて、太陽を反射してきらきらと光っている。眩しさに目を細めて、おおきく息を吸った。潮と冷たいにおいが肺いっぱいに充満する。

 今朝突然アルから、海が見たい、と電話があったときには、わたしはまだ布団のなかでもぞもぞと怠惰な眠りを貪っている最中だった。何度目かのコールのあと、ようやく電話をとったわたしに、アルは電話口のアンニュイな空気に構うことなく、この夏二人で海水浴をした海に行こうとまくしたてた。わたしはそれに、ものすごく億劫な返事をしたつもりだったのに、当然彼には通用することなく、ここまでのこのこやって来てしまっている。
 初めて出会ったときからそうだった。彼はパワフルで底抜けに明るくて、自分勝手で子供っぽくて――それでいてとても優しい。好奇心をいっぱいに溜めたひとみは、ときたまひどく寂しそうで思慮深く艶めくときがあって、それはたびたびわたしに、懐かしいような、苦しいような、謎めいた思いをもたらした。

「ちょっとこっちの道に行ってみないかい?」

 以前来たときは、すぐに海に向かってしまっていたから、気が付かなかった。
 波打ち際のひとりと一匹を追い越したあとは、時々ふたりの横を車が通りすぎるだけで、わたしたちはつないだ手をぶんぶん振り回してみたり、強く握ってみたり、ふざけ合いながら道なりにまっすぐ進んだ。そうして車道と垂直に伸びる、石畳の坂道を見つけた。両脇を雑木林で囲まれているせいで、すこし薄暗い。覗き込むようにながめてみたが、ずっと先までゆるやかな登り坂が続いていて、カーブした先の終着点に何があるのかは分からなかった。

 アルは一応、問いかけの言葉を口にしたが、その目は今日の天気のように晴れ晴れとした空色に、少年らしい輝きがのせられていて、こうなるといつもわたしが観念するよりほかないのだ。けれどもそれは、決して憂鬱なことではなく、わたしは何度もこの目に真新しい世界を見せてもらった。このひと夏の間に。

 夏の暑い日に少し遠出した日のこと。昼間は、日本の夏は何でこんなに暑いんだい?!、と延々と繰り言を並べ立てていた彼が、夕暮れ時、気温が下がったことで急に気を良くしたのか、今日と同じように、子供らしい好奇心でもって、得体のしれない脇道を選んだことがあった。
 わたしはその日、下ろし立ての赤いパンプスを履いていて、その道を進みだす前から、実のところ靴擦れのせいでじわじわと痛むかかとを抱えていた。それでも彼の空色を曇らせるのが嫌で、平気な顔でついていったつもりだった。
 ひとつ脇に入ると、途端に人気がなくなった。まばらに立った街灯がぼんやりと優し気な灯りを灯し始めていた。その日もわたしたちは手をつないでいて、少し進んだところでアルはぱっと突然手を離すと、わたしのまえでひざまづき、そっとわたしの足首を掴んだ。

「ヒーローに隠し事はできないんだぞ」

 そう言って、アルはわたしの靴を脱がし、赤く腫れたかかとを睨みつけた。それから慌てるわたしをまるで意に介さず、両足から靴を奪って、そのままわたしを抱きかかえた。
 降ろして、とわたしは恥ずかしさに思わず語気を強めて言ったが、アルは、嫌なんだぞ、と、その台詞に似合わない穏やかな笑みを浮かべた。わたしを花壇わきに座らせ、ペットボトルの水でかかとを洗い、ものすごく意外なことに、彼が持参していたらしいばんそうこうを貼ってくれた。
 目を丸くして、持ってきてたの?と聞けば、すこし照れくさそうに、前ににもらったやつだよ、と言う。そういえば初めて出会ったとき、彼はちいさな猫に引っかかれて、指に傷を作っていた。あれからずっと持っていたの?とさらに丸くなった目で尋ねると、そんなことどうでもいいじゃないか、と珍しく歯切れの悪い言葉が返ってきたのだ。

 財布のなかから出てきた、すこし皺になったばんそうこうを思い出すと、勝手に口もとが緩んだ。アルは、何笑っているんだい?と、不審そうな目つきをしたが、わたしは彼の方を見ずに、内緒、と言って、彼の手を引いて石畳に履き慣れたスニーカーで踏み出した。

 緩やかに見えていた坂は、思いのほか長くて急だった。運動不足なわたしは、すこし息が上がっていた。アルは同じように運動不足なはずなのに、いつの間にか軽々とわたしを追い越していて、わたしは彼に手を引かれて坂を登るかたちになっていた。
 つないだ手のひらが熱くて、わたしはもう片方の手をポケットから出す。引っ張って、全体重をかけるように両手で彼の手をつかむと、重い、とアルは不服そうな声を出したが、一度振り向いたその顔は笑っていた。
 下からの追い風に煽られたアルの金髪が揺れて、木々の隙間から差し込む光を反射した。強い光に目を焼かれて、目尻に涙がたまったが、それはきっと生理的なものなのだ。

 彼はもうすぐ帰国する。故郷で父親の会社を継ぐらしい。人生最後のモラトリアムだと、大学卒業後、無理やり夏休みをもぎ取ってきたのだと笑っていた。

「良い眺めだなあ」
「ほんと。気持ちいいねー」

 大きく伸びをする。よくたどり着いたものだ、と我ながら感心した。
 終着点は簡単な展望台になっていて、木製のベンチが数個、海に向かって並べられている。結構な高台だったようで、さっき車道越しに見えた景色が、眼下におおきく広がっていた。
 いつの間にか額に滲んでいた汗を手で拭う。アルのこめかみには汗で小道が出来ていた。ハンカチを取り出して手渡すと、拭いてくれるかい?と甘えるように彼がわずかに身を屈めたので、わたしもすこし背伸びをして、彼の額とこめかみの汗を拭った。御礼の言葉とともに頬に口づけが降ってきて、彼の金髪が耳に触れてくすぐったかった。

 一番眺めの良さそうな、特等席にふたりして陣取った。アルはどかりと遠慮のない動作で座り込み、両足を無造作に投げ出した。わたしも彼に倣って、その隣に腰かける。アルはもう一度わたしの手をとり、今度は指と指を絡めながら、さっきまでよりも幾分か強い力でふたりの手を繋げた。
 眼下に広がる海は、さっきと同じに澄んでいて、たくさんの宝石でも隠してるみたいにきらめいている。あの水平線のずっと向こうに、彼の国はあるのだ。

 最初から、期間限定の恋だと分かっていた。だから、アルと向き合うときは、どこかで気持ちにブレーキをかけるつもりだった。
 なのに、アルは空気を読むなんて言葉知らないみたいに、土足でわたしのこころに踏み入って、縦横無尽にわたしのなかを荒らしまわった。手を引いて、色んなところに連れ出して、たくさん笑って、笑わせて。わたしの事情なんかおかまいなしに振り回したけれど、いつだってわたしが本当に嫌がることは絶対にしない思慮深さがあった。それから、その傍若無人な振る舞いとは裏腹に、わたしに触れるときの彼は、溶けるように甘やかで、そのたびわたしはこころの内の柔らかい部分を何度もやさしく撫でられているような心地がしていた。
 アルが好きだ。とんでもなく好きになってしまっていた。

「アル、ひとつだけ約束してくれる?」
「ん?なんだい?」
「わたしのこと、忘れないで。たまに思い出して」

 わたしが手にちからを込めると、それよりももっと強い力が加わってきた。
 顔を上げて空を仰ぎ見ると、まぶしい日差しが目を刺した。鼻の奥がつーんと痛んで、胸がぎゅっと狭まって、涙がわたしの内側からせりあがってくるのが分かった。きっと、生理的な、涙だ。

「嫌なんだぞ」

 瞬きをすると、端から雫がこぼれた。アルはさっきの台詞に似合わない、穏やかな笑みを浮かべながら、わたしの頬をなでた。熱っぽい指先。

が寂しくなったらいつでも会いに来るよ」

 アルがわたしの頬を手で包む。

「だから、も俺が寂しくなったら、会いに来てくれるかい?」
「……ヒーローはいつでも駆けつけるよって言うかと思った」

 わたしが茶化すようにそう言うと、アルはにっこりと唇を引き上げて、ヒーローにも癒しが必要なのさ、なんてうそぶいた。

 期間限定の恋だと思っていた。それでも、わたしは、わたしたちは、きっとそんなことはもうずっと忘れてしまっていたのだ。
 彼はこれから、彼の国で、素敵なひとに出会って恋に落ちるかもしれないけれど、わたしも、同じように別のひとと恋に落ちるかもしれないけれど、先のことは誰にも分からない。この恋が、ずっと続いていくかもしれない。あの水平線の向こう側までもずっと。遠くまで。

、ひとつ約束してくれる?」

 アルのひとみは優しくきらきらと光っている。美しい空色。

「俺のこと、嫌いになるまで、ずっと好きでいて」






(2016.04.11)


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