手土産をもって、いつも通りに家を出た。本日のお土産はおばあちゃん特製のおはぎと箸休めの塩こんぶだ。塩分を摂りすぎる菊さんに配慮して、塩こんぶは減塩しおで作ってある。最近は、一人暮らしかつ不労所得(なんか駅前に大きなビルを所有しているとかいう噂)で生きている菊さんの健康管理が、私と私の家族の使命のひとつであるかのごとく、差し入れには力が入っている。

菊さんは私のご近所さんで先生だ。本当は先生をしてもらうつもりはなかったのだけど、私が中学生になり菊さんのお庭をお借りして遊ぶという口実がなくなり、彼に差し入れを持っていけなくなりそうになったあたりで、家族会議の下決められたことだった。菊さんは「文系科目くらいしかできませんよ」と語尾を上げながら言ったけれど、我が家の押しの強さに負けて、最後には首を縦に振ってくれた。というより、お父さんに半ば無理やり振らされたというのが正しいかもしれない。私の将来を案じている良い父風を装って、涙ながらに人情に訴えかけていた。とはいえ、「お先真っ暗」というほど成績が壊滅的に悪いわけでもなかったことは、菊さんはとっくに知っていた。高校生になっても差し入れとともに週に3回規則正しく勉強を教わりに来る生徒が、将来を不安視される大馬鹿なままなら、菊さんは相当腕の悪い先生ということになってしまうしね。

「こんにちはー」
「ああ、いらっしゃい」

勝手知ったる我が家のように、家主の返事を待たずに引き戸に手をかける。ガラガラと古めかしい音を響かせながら、でも手入れがなされているせいかとてもスムーズに開いた扉の先では、ぽちくんがいつものように短いしっぽをふりふり出迎えてくれた。「ぽちくんもこんにちは!」急いで靴箱の上に荷物を置くと、靴を脱ぐのももどかしくて、いつものように上がり框に膝立ちになってぽちくんを抱きしめる。薄茶色の毛に顔を埋めると、夏の陽だまりの匂いがした。

「こら。女の子がお行儀悪いですよ」

奥から菊さんが出てくる。靴をはいたままほとんど四つん這いのような恰好の私を見つけ、咎めるように言う。恥じらいをお持ちなさい、と続けるから、なんだかおばあちゃんと話しているみたいな気持ちになる。菊さんは実のところ年齢不詳(というか聞いたことないだけだ)だけど、少なくともおばあちゃんの息子であるお父さんよりは全然年下に見える。

素直に「ごめんなさい」と言って身を翻し、上がり框に今度は膝ではなく腰を下ろして、サンダルを脱いだ。そのとき、ふと見慣れない靴があることに気が付いた。玄関の隅に寄せられているそれは、菊さんが履くには大きすぎるしなんだか武骨な感じがする。

「誰かお客さんですか?」

靴を指差しながら言うと、菊さんがああという顔をした。古い友人が来てまして、という言葉が続く。

「そうなんですか。じゃあわたしご遠慮した方がいいですよね」
「いえいえ、大丈夫ですよ。遠慮するような間柄でもないですし」
「・・・というと?」
さんは覚えてないかもしれないんですが、前にうちの庭で一緒に遊んだことがあるはずですよ」

頭に大きなはてなが浮かんだ。菊さんは結構な人見知りでこう言ってはなんだが、もしかしたらうちの家族が一番親しい友人なのでは、と思っていたくらいだ。だから、この家に客が来ていればさすがに覚えていないことはないと思う。気付けば腕組みをして考え込んでいたみたいで、菊さんがふふっと微かに声を立てて笑った。相当難しい顔をしていたのか、困ったように眉根を下げた菊さんが、「会えば思い出しますかねえ」と含んだ感じの言い方をした。

「その人はいまどこにいらっしゃるんですか?」
「縁側で水遊びしてますよ」
「え?・・・その人いくつですか?」
「まあ、私よりは年下ですかねえ」
「そういえば、私菊さんの年齢知らないです」
「世の中知らなくてもいいこともたくさんありますよ」

廊下を並んで歩きながら、そんな会話をしていると、菊さんがいつもの勉強部屋の襖を開けた。それから「ほら」と縁側の方に視線を向ける。それに倣って私も菊さんの視線の先を追った。夕日にきらめく銀髪と大きな後ろ姿、それからちゃぷちゃぷと水の跳ねる音がした。「水遊び」と聞いて、昔お庭に出してもらった子供用プールを思い出していたから、まさか大の大人がそれに浸かっているんじゃなかと若干不安を覚えていたのだけれど、どうやら彼は膝下だけを水に浸けて、申し訳程度の涼をとっているらしかった。生ぬるい風に煽られて、ちりんちりんと風鈴が鳴った。

「ギルベルトくん」

そう呼ばれて振り向いたその人は、窓の外の夕日よりもずっと深くて濃い赤い目をしていた。菊さんの隣に立つ私にすぐ気づいたようで、一瞬不思議そうな顔をした後すぐに破顔した。懐かしいものでも見るみたいに目を細めて、瞬間、私は記憶の奥底からひとつの答えを引っ張り出した。「吸血鬼の人だ」鮮烈な思い出とともに蘇った鮮やかなシーンに、受け取り手への配慮も忘れ、口からつるりと言葉が零れた。

「なんだよ、またそれかよ。・・・もう泣かねえよな?」

訝るような声色で、ギルベルトさんが肩を竦める。菊さんはやっと思い出しましたか、とばかりにやれやれという顔をしたかと思うと、さっき渡したお土産を手に「お茶と一緒にみんなで食べましょう。用意してきますね」と言って、間髪入れずに部屋を出て行った。取り残された私は、幼い記憶のなかの吸血鬼がずいぶんとしょんぼりしているのに気が付いた。

「すみません・・・つい」
「別にいいけどよ」
「びっくりしました。5年ぶりくらいですよね?」
「お前と会うのはな。たまにこの家には来てたんだけどよ」
「・・・もしかしなくても避けてました?」
「そりゃそうだろ。人の顔見てあんだけ泣かれりゃトラウマにもなるっつーの」

拗ねたような口ぶりだったけれど、ギルベルトさんはにっと笑ってくれる。ぽちくんがとてとてとかわいらしい効果音でも出そうな歩き方で彼に近づき、そのまま膝の上によじ登って丸くなる。この季節の犬は少しでも冷たいところに体をくっつけようと躍起になっているのに、ギルベルトさんの膝の上のぽちくんはずいぶんと快適そうだ。低い体温・・・やはり吸血鬼?ふと浮かび上がった妄想にぶんぶんと頭を横に振った。ややあって、ギルベルトさんが手招きしたのが見えた。

近づいて、ギルベルトさんに促されるまま彼の隣に腰かける。足元には予想通りいっぱいに水の溜められた子供用プールがあって、ジーンズが膝までまくられた足があった。自分もそれに倣って水に足をつけると、思ったより冷たくて心地いい。4本並んだ内の2本は驚くほど白くて、髪や目の色以上に日本人ではないことを強調された気になった。

「その節はすみませんでした」
「そうだ、誠心誠意謝れば許してやろう」
「うわ、大人げないですね」
「大人じゃねーもん」

にやりと笑うギルベルトさんは、確かに子供みたいに無邪気に見えた。記憶のなかの「吸血鬼」と今の自分を比べると、さほど大差ないような気がしたから、私と10歳も離れていないくらいかな。彼をまじまじと見つめると、ギルベルトさんは「俺様がかっこいいから見とれてんのか?」と自信たっぷりに言い放った。線の細い感じの、恐ろしくて美しかった「吸血鬼」が、私の頭の中で上書き保存されていく。

「さあ、用意できましたよ」

カタカタと頭のなかで猛烈に記憶の書き換え処理が行われているところに、菊さんの声がかかった。はっとして我に返ると、目の前でギルベルトさんが彼の目みたいに真っ赤な顔をしていた。菊さんから声をかけられるまでずっと彼を見つめていたらしい。それに気づいたらなんだか猛烈に恥ずかしさが襲ってきて、かっと頬が熱くなる。

「そこの青春二人組の分も食べてしまいましょうかねえ」

固まったまま動かない私たちに、菊さんがいたずらっぽく言った。「食う!」とギルベルトさんが言うと、静かな寝息を立てていたぽちくんが驚いて飛び起きた。寝ぼけたようにふら付きながら、今度は私の膝の上に移動してくる。菊さんの元へ駆け寄るギルベルトさんの背中を見送りながら、おはぎは家に帰るまでおあずけだな、と私は諦めてぽちくんの背中を撫でた。





菊さんが楽しそうでなにより(2016.02.11)



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