スマホを握りしめていた手が汗ばんでいて、思いのほか余裕のない自分に気づいた。間髪入れずにOKをくれた、電波に乗って届いた彼女の上ずった声を思い出し、否が応にも顔が緩む。そのまま破顔してしまいそうな自分の顔を隠したくて、口元を手で覆った。

「待ってる」

耳元で囁かれて、びくりと肩が震えた。声の主は考えるまでもなくフランシスで、腹立ちまぎれに虫を払うみたいに顔の横で乱暴に手を振る。するとその手はすぐに柔らかい障害物に当たり、べしりと俺にとって非常に気分の良い音が聞こえて、そのあとすぐに小さな呻き声が続いた。

「ちょっとギルちゃん酷くなーい?」
「女みたいな言い方してんじゃねえよ」

ねめつけるように彼を見やると、酒だけで紅潮しているわけでもなさそうな頬を右手で押さえている。目が合うと、小さな女の子のように頬を膨らませた。二十歳も超えた男がしていい表情じゃねえだろ。うっかり毒気を抜かれてしまったが、目を薄くして自分のこの白けた気持ちを視線に乗せた。その様子を眺めるアントーニョは、いかにも傍観者然とした佇まいだ。

「何関係ねえって顔してんだ」
「へ?俺?」
「俺はさっきの笑い声を忘れてねえからな」
「ええやん、ええやん、結果オーライやん」

アントーニョは、がしりと効果音でも出そうなくらいに力強くフランシスと肩を組むと、さも俺らのおかげとでも言いたげに、口角できれいな弧を描いた。一拍遅れてフランシスもそれに続く。彼らの瞳は、まるで新しい玩具を見つけた子供のようにきらきらと輝いていた。
ここに彼女を呼んだのは間違いだったかもしれない。

金曜日の夜。俺たちが集まるのに、なにくれと理由は必要なく、その日の最後の講義を受けた後、流れで大学近くのバーに来ていた。バーと言っても、そこは俺から言わせると、デートで使う類の店ではない。ロックバ―というやつだ。クラブよりもいくらか耳に優しい音量で、マスターおすすめのロックが流れている店内は、隣のグループの声が全然聞こえてこないから、どんなに下世話な話をしていても許される気になる。雑踏に紛れ込んだように忙しない空気に身を任せると、不思議と気持ちが落ち着いた。ただ、フランシス曰く、隣に立つ人間の声も聞こえないフリができるから、ロック好きの女の子とのデートにはおすすめらしい。は連れてくんなよ。フランシスの得意げな顔にその言葉は音にはならなかったが、微かに眉を顰めた俺に、フランシスは見透かしたように目を細めた。

彼女との出会いは、彼女が俺を俺と認識するよりももっと前に遡る。
2年生の秋学期。入学当時に吸った初々しい空気を肺の隅々から吐き出し切ってしまっていた俺たちは、単位取得が簡単すぎることで有名なドイツ文学の講義をとった。初回講義すらも出席するのを渋るフランシスとアントーニョを引きずり、講義室へ入った。さすがに第一回目ということもあり、室内は日本の満員電車さながら、気だるげな生徒たちで埋め尽くされていて、退屈なため息たちが灰色の雲になって教室の天井を覆っているように思えた。俺たちと同じように遅れて現れた数人の生徒たちは、その情景を目にした途端、踵を返して教室を出て行く。それに紛れて連れの二人もそそくさと立ち去っていった。しかし、俺はそんな状況をものともせずに、ゆったりとした口調でマイペースに講義を続ける講義室の一番奥に佇む白髪に大きな腹を抱えた男の姿に、ほんの少しの感嘆を覚えた。このまま留まることにして、空いてる席を探す。

「悪い。隣いいか?」

右から2番目の後ろから5列目に、日本人らしき女の子が座る席の隣に空きを見つけた。彼女も一人で受けているようだった。俺が腰を屈めて耳元に近づけて囁くように言うと、こちらを向いて目を見開いたように見えた。慌てたように数度頭を振って、机の上の荷物を片手で引きずりながら、ひとつ席を詰めてくれる。俺は小さく頭を下げて、空けてもらった席に座る。

単位取得が簡単、という噂だけが有名なその講義は、思いのほか面白く、室内のため息は時間が経つにつれ霧散していった。スピーカーを通して聞こえる教授の声は、やる気がないという噂話を払拭するには十分な程軽妙な調子で淀みないが、人に聞かせるというよりも自分が話したくて話しているといった調子で、噂の半分は真実だなと思った。

好きこそ物の上手なれというやつか。顔を綻ばせながら話す、おっさんにしては無邪気な教授の姿にそう思っただけのつもりだったが、どうやら声に出ていたらしい。先程席を譲ってくれた女の子が、小さく息を漏らして、同意の相槌を打った。ばつが悪くて、苦笑いで首の後ろをかくと、彼女がふっともう一度息を吐くのが聞こえて、同時に肩を震わせる律動を感じた。首の後ろに手を回したまま、椅子に深く座り直して体を背もたれにもたせかけた。すると、曲げていた肘が後ろの席で突っ伏していたらしい男の頭にクリーンヒットしたようで、強制的に夢の世界から引きずり出された男がびくりと顔を上げたような気配がした。慌てて素知らぬ顔で腕を下すと、隣の女の子が顔を伏せて、なおも肩を震わせている。形の良い頭が斜め下で一緒に揺れていた。

『笑ってんじゃねえよ』

ノートのはじを破いて、彼女の顔の前に差し入れる。一瞬彼女は驚いたように動きを止めたが、シャーペンをとって、さっき渡した切れ端に、何か書き込んでいるようだった。小さな頭にくっついている耳が少し赤くなっているように思えた。そのあと手元を細かく動かしていたかと思うと、こちらを見ないまま、俺の目の前の机の上に、折り畳んだ紙を置いた。鳥だ。器用に折られた紙を拾い上げると、そこでチャイムが鳴りだし、黒板の前で上気した頬の教授が、ではまた試験の日に、と言ったのが聞こえた。

「ギル、お昼行こうやー」

間延びした声が背後の扉の方から聞こえて振り向くと、講義が終わるのを待ち構えていたかのようにアントーニョが顔を覗かせていた。俺はさっきの「鳥」をペンケースにしまい込んで席を立つ。彼女は自分の荷物を片付けている最中のようで、俯いていてどんな顔をしているのか分からなかった。

その日家に帰って、ペンケースから「鳥」を出すと、なるべく丁寧に扱ったつもりだったが、羽の部分が不格好に潰れてしまっていた。自分のノートの切れ端であるというのに、それはなんだかとても大事なもののように思えた。机の中にそれをそっとしまい込む。折り目を解くのが憚られて、彼女が何を書いていたのかは、今もわからないままだ。

その後、何度かその講義に出席したのは、教授の話を気に入ったせいであって、決して彼女に会いたいという強い思いがあったわけではない。気になっていたのは事実だったが、記憶のなかの彼女は最初に見たときの少し驚いたような目を真ん丸にした間抜けな表情をしていたから、淡い思いを抱くには不釣り合いな気がした。

次に会ったとき、彼女は何故かフランシスと一緒にいて、話の流れからして先に彼女と出会っていたのは俺のはずなのに、不本意にもフランシスから紹介を受ける羽目になってしまった。



フランシスとアントーニョは彼女をちゃんと気安く呼んだが、俺は頑なに彼女をファミリーネームで呼んだ。それは、最初の出会いを全く覚えていない風の彼女に、少し腹を立てていたせいかもしれない。

机の上でフランシスのスマホが振動し出した。画面に「ちゃん」の文字が浮かぶ。それを確認すると、フランシスは一度俺に自分のスマホを押し付けたが、俺が拒絶の態度を示すと、すぐに諦めて自分で電話に出た。

ちゃん、いまどのへん?・・・ん?店が分かんない?」

フランシスが電話口の相手にそう言う。それを聞いたアントーニョが目を細めて俺を見た。

「おっけー。じゃあギルちゃんがエスコートしに行くからちょっと待ってて」

そう言って、彼が相手の返答も待たずに電話を切ったのが分かった。にたりと居心地の悪い笑みを貼りつかせた二人に見据えられ、はっと息を漏らしてから肩を落とした。わかったよ、行けばいいんだろ、行けば。さも不本意といった風情でそう言ったのに、彼らは表情を崩さずに、手で「お先にどうぞ」のかたちを作り、にやついた顔で無言のまま俺を見送った。

くそ、お前らのときは覚えてろよ。心のなかで目いっぱいの悪態をついて、二人にばれない程度の早足で店を出た。後ろ手に閉めた扉の向こうから、誰かがリクエストしたのか、最近はまっているさほど有名でないロックバンドの曲が漏れ聞こえてきた。それから、まるでそれに背中を押されるように、さっきよりもさらに歩を速めた自分に、俺はすっかり気が付いていた。







フランシスとアントーニョはかわいいギルベルトくんが大好きです(2016.02.02)



material by HELIUM

Close