
とりあえず自分の直感を信じて右に曲がってみる。早足で、それでもなるべく靴音を響かせないようにして歩いた。しかし、そんな努力も無駄に終わったのか、まるでわたしの抑えた靴音に被せるようにして、さっき聞こえたそれがだんだんと近づいてくるのが分かった。観念して立ち止まるべきなのだろうけれど、わたしは一刻も早く家に帰ってもうひと眠りしたかった。今日は街に出たって、幸せそうなカップルだらけだろうし。
「そんなに急いでどこへ行くんだね?」
ついに観念するときが来てしまった。上司に声をかけられて、さすがに無視したり逃げ出したりするほどの度胸は持ち合わせていない。
「…おはようございます」
「ああ」
「そ、それでは!」
「待ちたまえ。君は今日非番ではなかったか?」
「そう。そうなんですよ(だから帰ろうとしてんですよ!)」
「ふむ。けれど今君はここにいる」
「はぁ」
「
はそんなに私に会いたかったのかね」
あまりに予想通りの言葉に、これ見よがしに大きなため息をついてみせた。けれど大佐はそんなことにはほとんど、というか全くもって気にも留めない様子でにっこりと満足げな笑みを浮かべている。
「わたし今から帰りますんで!」
「そう急ぐこともないだろう?」
「いや、ものすごく急ぎます!」
私が駆け出そうとすると、大佐はすっと腕を掴んで声を立てて笑った。
「何ですか?」
「君は今日が何の日か知っているか?」
「ホワイトデーですけど」
「何かほしいものは?」
「いえ、特には?」
「そうかそうか。私がほしいだなんて、君も大胆だな」
「言ってませんよ?!」
「おや?私の耳には聞こえてきたのだがね。君の心の声が」
大佐が慣れた手つきで私の顎を捕まえて、顔を近づけて来る。唇が触れるか触れないかの位置にまで大佐の顔が近づいてきた瞬間、ぞくぞくとどこかから落ちるような感覚とともに、さっきよりももっと自分の頬が熱いのが分かった。大佐はそれを見て、満足げに笑う。
「大佐は大勢の恋人たちへのお返しで、今日はいっぱいいっぱいなのでは?」
いつものことではあったが、からかわれたのがくやしくて、乱暴に大佐の手を払った。大佐の顔が一瞬驚いたような色を見せる。してやったりだ。
「ふむ」
「な、なんですか?」
「いや。君に妬いてもらえるとは思わなかったのでな」
「はあ?!」
どこまで自分の良いように解釈すれば気が済むんだこの人。わたしが半ば呆れてがっくりと肩を落とすと、大佐がやんわりと優しくわたしの手をとった。
「そんなに心配しなくても、今年は君以外からは受け取っていないよ」
「しゃあしゃあと嘘つかないでください」
「嘘だと思うのなら、ハボックたちに聞いてみるといい」
勝手に軍部に送り付けられた分はあいつらに一軒一軒回らせて返させたからな、と平然と大佐は言ってのけた。それがもし万が一本当だとしても、大佐が自分勝手な人には変わりない。
「
、私を信じてくれないのか?」
大佐は哀愁たっぷりの表情でそう言った。わたしはその目から逃げるように身を翻すと、大佐の手を振りほどいて真実を確かめるために、今来た道を戻り始めた。
別に大佐がどうしたかが気になっているわけではないのに、すぐに背後から聞こえてきた靴音の主が満面の笑みを浮かべているかと思うと、くやしくて早足にならざるを得ない自分の足元を、わたしはうらめしく見下ろしていた。
END.01 | 靴音(ロイ)
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